中町泰子(神奈川大学国際日本学部講師)
1 はじめに
ここ10年間ほど、筆者は神奈川県藤沢市に所在する日蓮宗・龍口寺において、毎年9月11から13日にかけて行われる「龍口法難会」を調査してきた。この法難会は、竜の口の刑場へ護送されてきた日蓮上人が、まさに斬首の危機に瀕した瞬間に、江の島の方から光り物が飛来し、太刀が砕ける奇瑞が起こり、執行人が恐れおののいて刑が中止された伝承に因んでいる。
調査を始めた当初は、この法難会で必ず奉納される「胡麻の牡丹餅」が、どのような人々によって作られているのかに関心を持っていた。しかし、毎年足を運んでいるうちに、行事の裏方として奉仕する人々に次第に注目するようになった。行事の進行の裏側では、僧侶のみならず、講という信徒集団や、地域の団体、個人のボランティアの人々らが集まり、事前の準備を始めとして、当日の活動、片付けまで細かに役割を分担して動いていることがわかってきた。法難会の実施には、寺院側だけではなく、重層的に支える人々の輪が関わっているのである。
2 お会式について
お会式の意味は、法会、または法会の儀式の意であるが、後世ではもっぱら日蓮宗の宗祖の忌日法要を指すようになり、御命講・御影供ともいわれるようになった。日蓮上人は弘安5(1282)年、10月13日に池上宗仲公邸で入寂した。上人が滞在した池上邸の仏間は、「ご入滅の間」として大坊本行寺(東京都大田区)の堂宇となり、そこには説法の時の「およりかかりの柱」も守られている。池上本門寺(東京都大田区)は江戸時代の中期ごろまでには「入滅の霊場」として体裁が整えられていき、参拝の信徒たちは、祖師堂の生き写しの祖師像を拝み、大坊のご入滅の間、およりかかりの柱に触れ、鏡の御影、硯水の井、旅着堂、会式桜、荼毘所の多宝塔などを巡り、御廟所に詣でて帰途に着いた。本門寺から堀之内妙法寺(東京都杉並区)、雑司ヶ谷法明寺、同所鬼子母神(東京都豊島区)に至る日蓮宗巡拝コースも同時期に成立した。お会式はそうした霊場巡拝を背景とした重要な法要である。
池上本門寺のお会式は10月11~13日である。『東都歳時記』(天保9(1838)年)によれば、12日と13日は特に盛大であったと記される。この2日間には日蓮聖人木像の開扉があり、通夜する者も多く、夜中には説法があり、信徒は法悦にむせんだとある。
現代でも、逮夜にあたる12日夜には万灯練供養に百数十講中、総勢約3千人が参集する。池上徳持会館(東京都大田区)から本門寺までの約2キロの道程を、講中は太鼓を叩き、纏を振りながら、所々で見せ場を作り、「南無妙法蓮華経」を繰り返し唱えつつ進む。会式桜の枝垂れる万灯がライトアップされて揺れながら輝き、集まった群衆の目を楽しませる。次から次へとやってくる講中が、町中から本門寺を目指して賑やかに練り歩き、この日ばかりは池上が江戸時代に戻ったかのような熱気高まる夜になる。
お会式に参拝した日蓮宗信徒についてであるが、中尾堯によれば、中世以降、南関東に地盤をもっていた日蓮宗は、積極的な布教活動により江戸の町に勢力を広げ、特に町人の間に熱烈な信者を獲得した。彼らは題目講を結成して定期的に集まり、お会式ともなれば遠距離であっても参拝をした。また、江戸の近郊農村が発達するに従い、農村部でも信徒が増え、大勢で参拝するようになったと述べられる。1
お会式は宗祖への報恩・供養の儀式という本来の意義に加え、信徒にとっては宗祖をはじめとする諸神仏の霊験に対する祈願・祈念を行う日であり、さらに、万灯行列や市など遊覧・娯楽的な側面も持つ都市祭礼の日でもあった。
3 龍口法難会を支える人々
龍口寺は日蓮宗の霊跡本山となっている。日蓮上人の入滅後、法難を忘れまいと建造されたのが、一堂「竜口院」であり、後に龍口寺へと発展した。寺院が創建されてからは法難会が毎年営まれるようになり、これが現代では「龍口法難会」と称されている。日蓮宗寺院では、1年で最も重要な行事が「お会式」である。龍口寺の法難会は過去には「お会式」と称されていたこともあり、当寺の最大の行事とみなされ、近世には池上のお会式にも匹敵するほどの信徒を集めた。『新編相模国風土記稿』(天保12(1841)年)には、「毎歳九月十一十二両日の会式には宗門の緇素群参せり」とある。また、『日蓮大士真実伝』(慶応3(1867)年)には、「毎年九月十二日は御大会と称し、江戸を始め、遠村近郷より群衆の参詣、稲麻の如し」と表現されている。現代においても、万灯練供養に市内外の団体が数多く参加し、一般の参拝者も参集する様相を見ると、池上よりもひと月早く、お会式シーズンがここから口火を切るように見える。
龍口法難会で調製される黒胡麻の牡丹餅は、上人護送の途中で、信仰心の篤い老女が馬上の上人に駆け寄り供養したとする伝承に因む。この伝承は中世には遡れず、『本化別頭仏祖統紀』(享保6(1721)年)の高祖伝の記載が最初の記述のようだ。2 さらに、『日蓮上人一代図絵』(安政5(1858)年)には、「高祖大難の時にあたり、老媼来つて胡麻の餅を供ず、後世この日にこれを製し、高祖の廟前に薦むることは、即ちこの縁故なり」と見え、この時代には、既に胡麻の牡丹餅の縁起が布教本の中で紹介されていることが理解できる。牡丹餅を供した勇気ある篤信家の老女に信徒は自らの姿を重ね、それに続こうと牡丹餅を捧げる。はじめは信仰の表れであった牡丹餅だが、日蓮上人がそれを召し上がった後に刑を免れた伝承に因んでか、いつしか「難除け牡丹餅」、「首継ぎの牡丹餅」と称されるようになり、危難を排して幸運を呼ぶ、お守り的な呪物としても人々に求められるようになっていった。
コロナ禍において惜しくも解散してしまったが、それまでは結成以来100年を超える二つの牡丹餅講・結社が、毎年餅つきをし、手作りした大量の牡丹餅を奉納していた。2022年からは地域のボランティアが牡丹餅調製を引き継いでいる。小さな袋に詰められた、たくさんの牡丹餅は、法要の後の本堂で、左右二つの桟敷の上から撒かれ、手を伸ばしながらひしめく参拝者に授与される。
牡丹餅撒きが終了し、人々が境内を振り返ると、外は既に夜の帳が下りており、万灯練供養の団扇太鼓の音が聞こえてくる。参道の階段を第一番に上ってくるのが取持講「片瀬睦」である。彼らはふだんより、寺の行事の裏方として活動を行っており、万灯練供養には最初に纏を振り、演舞するのである。本堂から出てきたばかりの参拝者、境内で待ちかねていた鈴なりの観衆の中、重量のある纏を軽々と、粋に華麗に操るのが見せ所である。その後には各地から集まった講中が、鳴り物も賑やかに万灯行列をしながら祖師を目指して門をくぐってくるのである。3
4 立正佼成会による龍口寺参拝
龍口法難会の初日には、日蓮宗僧侶を中心に「仏舎利塔 平和祈願大法要」が修される。夜になってからは、地元の取持講の万灯練供養行列に続き、立正佼成会の会員男女がピンクや水色のカラフルな法被で集まり、男性が三重塔の大きな万灯を担ぎ上げながら龍口寺へ進んでいくのである。翌日には各地の日蓮宗の万灯講中が集まってくるのだが、なぜ立正佼成会だけが、特別に前日に参拝しているのだろうか、その経緯についての問いは長く温めていた。
龍口寺への参拝について、大船教会(神奈川県横浜市)にて会員の方の体験を踏まえる談話を伺う機会を頂いた。それによれば、昭和30年代初めの頃、昔は今よりも交通規制がない時代で、鎌倉の若宮大路を佼成会の会員のみで万灯行進し、先頭はまるで見えず、後列は海に着く程の長蛇の列で進んだという。かつては会員を大船から龍口寺へ運び、そこで万灯行進を行い、それが終われば鎌倉へ戻ってまた行進。終了すると再びバスに乗車して大船へ戻ったという。それほどの大人数での盛大な行進を行った。
立正佼成会本部においては、昭和23(1948)年12月に、お会式を実施することが決まった。それ以前より、身延山、小湊誕生寺などへの参拝を含めた日蓮宗との交流、信仰活動がその決断を促したと推察される。初めてお会式万灯「行進」が行われたのは、翌年の10月12日の日蓮宗・妙法寺(杉並区)のお会式参拝の機会であった。それ以前は毎年本部での逮夜法要が営まれていた。昭和25(1950)年には、龍口寺の法難会に初の参拝を決めている。4
『妙佼先生法話集 第一巻』「三十九萬六千の龍口寺参拝記」(昭和26(1951)年)には、昭和25年の参拝の様相が活写されている。それは「待望の龍口寺参拝の朝が明けた」から始まる。当日の団参のために、朝4時半から臨時バスを借り、本部前から新宿駅間を折り返し運転し、小田急電車を21本貸し切りにした。本部前から特別班1000名が、16台の観光バスに乗り、3回に分けて出発した。「更に両先生の自動車、其他の自家用車、トラツク、小型の放送車等を加えれば、是亦二十数台に達する。埼玉、栃木、長野、身延、静岡の地方支部は、夫々汽車を利用して鎌倉に集合する。その総勢一萬六千名の大参拝団である」とある。
そして、午後1時半、参拝の時刻を迎える。「既に特別班は隊伍を整えて、両先生の御出場を待つている。両先生の後に従つて行列に加わる。本部の御旗を先頭に出発だ」。一団は龍口寺を目指して歩き始める。沿道の両側は立正佼成会員によって4列、5列の人垣で埋め尽くされている。題目の唱和は一段と高らかに力がこもり、「片瀬の空は一万六千人のお題目の大コーラスで大地は唸り、大空には百雷の轟くが如く」であり、「大聖人御入滅以来、片瀬の空に一万六千人の日蓮門下が相集うて、盛大な龍口法難会が催されたのは史上最初のことである」と結ばれている。5
5 立正佼成会の万灯行進と日蓮宗の万灯練供養
龍口寺の沿道で、初めて立正佼成会の万灯行進を見た際には、日蓮宗のそれとの大きな違いを感じた。スーツ姿で静かに御旗を掲げて先導してくる人々は、これが宗教的な儀礼であることを改めて私に印象付けたが、沿道の子供たちの中にはその厳かな雰囲気に驚き、「これってほんとにお祭りなの」と囁く声も聞こえた。その後には、一転して賑やかな鳴り物が響き、リズミカルな万灯行進が演ぜられて観衆は高揚するのだが、こうした佼成会独自のお会式の様式は、昭和26(1951)年から始まっている。纏は浅草で買い求め、笛、鉦、太鼓もそろえ、纏の振り方は左に3回、右に2回まわして背にかぶるという所作を会員が考案し、笛のメロディー、鉦の打ち方も創出した。かけ声の「チョイ、チョイヤサノ、チョヤサッサ」もリズミカルな調子で整えた。初の龍口寺参拝の折には、本部の御旗を先頭に出発し、後続に太鼓、笛、鉦が一斉に鳴り響き、十本の万灯が行進した。それに伴い七本の纏がハチマキ姿の青年たちによって振られたと記録がなされている。6
それでは、日蓮宗の万灯練供養はどのような歴史で推移してきたのだろうか。その起源は定かではないが、江戸時代後期には盛大に行われている光景が浮世絵にも描かれている。口碑によれば、徳川八代将軍の治世に身延山の出開帳があり、江戸の法華信者の諸講中はその出迎えや案内をした。その姿は、旗幟、花車、万灯に揃いの着物に手拭い、花笠と趣向を凝らし、団扇太鼓を叩きながら寺院へ向かった。こうした講中の日頃からの奉仕的な信仰活動が、万灯練供養の生ずる遠因になったとされる。江戸期の万灯は、丸や長方形の行灯に、造花の桜花がついた素朴な形であった。万灯に桜を飾るのは、上人の入滅の折に時ならぬ桜の花が庭に咲き誇った故事によるものである。時代の変遷の中で、多様な造形の万灯が作られるようになり、現代では五重塔の上から桜の枝が枝垂れるものや、行灯に日蓮上人の一代記が描かれて輝くものなど、華やかで重厚なものが多く見られる。纏は天保時代以降の始まりの説があり、現代では花形であるが、初期には万灯の付属品とさえ考えられていた。
万灯には太鼓や笛、鉦の鳴り物がつきものだが、これは流行り歌を用いている。龍口寺取持講の太鼓を叩く講員の談によれば、現在は太鼓で代表的な数曲を叩くという。それは、「桐生の八木節」、「南部」、あるいは「南無法蓮華経」、「お会式」と呼ばれる曲、「梅が枝」である。どの曲を用いるかは講により、地域により異なるということだった。「一貫三百本門寺。一貫三百どうでもよい」という、仕事(日当)よりもお会式を選ぶという意味の、江戸町人の心意気が表れたかけ声は、戦前までは盛んであったが、今はもう聞くことがない。近年の龍口寺では、「ソレソレソレソレ~。アソ~レ、アソ~レッ」と上がり調子のかけ声を出す、若い人たちの講中を見たが、これも時代と共に変化して多様である。
6 おわりに
ここまで、端的であったが日蓮宗のお会式について述べ、そして実地の調査を進めてきた龍口法難会の牡丹餅伝承や、行事を支える講や団体、個人のボランティアなど、寺院を取り巻く重層的な人々の支えによって、行事が実施されている様子について示してきた。
龍口法難会への立正佼成会の参拝は、それ以前の本部が決定した妙法寺お会式参拝から続くものである。立正佼成会が、日蓮宗寺院へのお会式参拝を始め、その後独自のお会式を発展させていった時代は、日本の高度経済成長期に重なっている。双方の信徒に青年~壮年層が多く、報恩感謝、遺徳を偲ぶ信仰心はもちろん携えながら、祭礼に情熱を傾ける余裕と熱気が、盛大なお会式の開催を可能にしていたと理解する。
現在、そしてこれからの日蓮宗のお会式と佼成会の祭礼行事は、同じ課題を抱えているのではないだろうか。信仰心を持ちながら、日常を生きることの安心感と、お会式のような非日常的な日に、拠り所を持ちながら大いに開放される喜びを、多くの人が分かち合うことができれば、伝統は尊ばれ、喜びと共にありながら継承されていくのではないだろうか、そのように考えている。
謝辞 貴重な資料を提供して下さった、立正佼成会本部総務部の皆様、そしてご経験をお聞かせ下さった大船教会の皆様に深く感謝しております。また、龍口寺様、そして、長年、龍口寺に奉仕する活動を間近に見せて下さった、片瀬睦、橘結社、最初牡丹餅講の皆様に心よりお礼を申し上げます。
主な参考文献
- 中尾堯1997「本門寺」西山松之助他編『江戸学事典』弘文堂 328-330頁
- 新倉義之1976「竜口法難の史実と伝説」新倉日林猊下喜寿祝賀記念集編集委員会『登龍十年新倉日林猊下喜寿祝賀記念集』龍口寺 123-317頁
- 中町泰子2021「龍口法難会を支える講と集団―藤沢市・日蓮宗龍口寺における牡丹餅講を中心として」『生活文化史』76号 日本生活文化史学会 28-54頁
- 立正佼成会1988『お会式のあれこれ』私家版
- 鴨宮成介編著1951「三十九 萬六千の龍口寺参拝記」『妙佼先生法話集 第1巻』 立正交成会宗学研究所 245-260頁
- 前掲同書、258頁
◆プロフィール◆
中町泰子(なかまちやすこ)
神奈川大学国際日本学部講師。神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科修士、博士課程修了。歴史民俗資料学博士。日本常民文化研究所特別研究員。
2013年より、お会式、龍口法難会をはじめ、報恩講、蓮如忌、地蔵盆など、宗派と地域を限定せずに各地の仏教行事をフィールドワークしている。
単著:『辻占の文化史―文字化の進展から見た呪術的心性と遊戯性』(ミネルヴァ書房 2015)、共著:「パワースポットはなぜ流行る?聖地巡礼とスピリチュアリティ」『知って役立つ民俗学:現代社会への40の扉』(ミネルヴァ書房 2015)他。
(『CANDANA』299号より)