森岡清美(成城大学名誉教授)
「一身にして二生を経るが如し」とは、福沢諭吉(1835-1901)が『文明論之概略』(1875)の緒言で漏らした述懐である。二生とは二つの生涯のこと、今生と後生あるいは前生と今生をいう。前生はこの世に誕生する前の生、後生は死後の生であるから、現在の一身では今生だけしか経験できないところ、前生と今生の二生をこの一身で経験するような人生であると、諭吉は述懐したのである。彼は中津藩士の家に生まれ、蘭・英両語学力で幕臣として出世コースに乗ったが、明治維新以後は仕官せず、慶応義塾を創立して日本の教育・言論・思想に大きな影響を与えた。維新後を今生と把握すれば、それ以前は前生というべき落差のあることを、60歳を超えた晩年の回顧ではなく、早くも40歳で実感していることも注目に値しよう。
非凡な能力に恵まれた福沢は維新の激変を切り抜けて不朽の名を青史に止めたが、武家の多くは維新の改革によって政治的経済的社会的特権を剥奪され、挫折の後半生を送った。福沢と同世代のそうした悲劇の主人公の例として、津藩三二萬石藤堂家の重臣藤堂式部家九代信成(1831-96)を挙げよう。彼は伊賀上野城内に生まれ襲禄するや士隊將として三千石を食んだ。明治2年(1869)版籍奉還により城内居屋敷を返上し、同11年家禄奉還、収入が絶えたにもかかわらず譜代の家臣たちを離さずまた離れず、座して売り食いの日々を重ねた。家計は急坂を転がり落ちるように窮乏の度を加えたため、活路を求めて大阪の米相場に手を出したところ、見る間に大穴をあけて失産する。かくて同16年頃漸く旧臣を離別し、同17年にはついに約八千坪の本宅を売却して家族離散となった。自らは津の名刹西來寺の伴僧となり、母は実家の久居藤堂家に寄留、家督を継いだ嫡男は失意のなかで悶死し、嫁も零落を嘆きつつみまかり、3歳から6歳の幼い孫たち3人は寺に小僧あるいは他家に養女として引き取られた。本人は同29年7月西來寺灯篭供養の夕べ、点灯中に法衣に引火して焼死した。福沢は変わる時流の潮目を読んで高く飛潮し、藤堂信成は逆巻く奔流に呑み込まれて藻屑と消えたが、ともに一身にして二生を経る思いをかみしめたのである。