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「明日への提言」  バックナンバー: 2012年

悲しみを力に変える働き

島薗 進(東京大学大学院教授)

 2011年3月11日の東日本大震災は巨大な津波と原発災害を引き起こし、日本の国土に破壊的な爪痕を残した。2万人近くの死者の追悼において宗教者の参与は欠くことができぬものだった。また、原発災害は経済的な発展に過度の力点を置いたこれまでの生き方の反省をもたらし、大自然への畏敬の念や人間の傲りの自覚など宗教的な価値観に立ち返ることを促しているようだ。

 この震災で亡くなった方々の2回目の命日が近づいているが、この度も多くの人々が被災者とともに死者を偲び悲しみを新たにするとともに、困難に満ちた今後の生活をいかに過ごしていくか、またどのように支援していくことができるのか思いを凝らすことだろう。太平洋戦争の終結後、新たな死者の霊を偲び、ともに悲しみを分かち合う葬祭や慰霊の儀礼の意義が、これほど強く納得されたことはなかったかもしれない。死者を慰霊し、死者との交わりを大切にする気持ちを多くの日本人が取り戻したようにも感じられる。

 だが、これは必ずしも急なことではなかったのではないか。死者との絆を尊ぶ人々の気持ちを如実に実感させてくれるような経験が近年、比較的多いようだ。2006年の紅白歌合戦では、秋川雅史が「千の風になって」を歌い、その後この歌は大流行した。この歌は死んだ近親者からの呼びかけを歌詞にしたもので、歌い出しは「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません」というものだ。そういえば、死者の声が聞こえてくるような気がしないだろうか。

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宗教者と市民をつなぐ宗教研究

弓山 達也(大正大学人間学部教授)

■日本で宗教を研究すること

 宗教を研究しているというと、この分野の専門家でもない限り、相手は、たいていは「何か信仰があるのですか」と恐る恐る聞いてくる。日本人の7~8割は宗教に無関心という意味で「普通の感覚」なら、宗教を研究しようというには、何か特別な理由-そう日本人にとって信仰は特別な理由-があると想定される。ここで宗教研究はお決まりのフレーズがある。「宗教を客観的に研究するのです」。

 宗教にあまり関心のない人は、この答えに安堵の胸をなで下ろし(私の目の前の人は多くの日本人がそうであるように無宗教の「普通の人」なんだと)会話はここで終わる。しかし少しでも宗教に関心のある人、例えばヨガや瞑想など東洋の叡智に期待を寄せていたり、癒しやスピリチュアリティに興味を持っていたり、寺社巡りをしていたりする人からすると、何か自分が大切なものを「客観的に」つまりモルモットのように扱われた感じになる。さらに信仰者からすると、その気持ちは一層強まることであろう。

 言うまでもなく宗教研究は、できるだけ正確かつ誠実に宗教に向き合い、その成果を研究者および市民に発信してきた。そして日本の宗教研究は、何が良いとか悪いとかという判断や、特定の宗教教団や政治から自由というくらいの意味でリベラルであり、価値中立とデタッチメント(対象に関わらないこと)を特徴とする。しかしもっともらしいようで、実は市民はこれでは納得いかないばあいもある。宗教に関わっていないことでホッとした一方で、専門家たる宗教研究者に「危ない宗教」に対する見識や逆に自らの魂の安寧に役立つ宗教への知識を求めたくなる。言うまでもなく前者は研究者の価値観を提示するため価値中立の原則に抵触し、後者は特定に宗教教団を利したり市民に必要以上に近づいたりするゆえにデタッチメントに背くことになる。

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強者の責任と弱者の責任

福島 哲夫(大妻女子大学教授)

 臨床心理士としてカウンセリングをしている時、基本的には傾聴に徹する。大まかに見積もってこちらの発言量は全体の約3割以下である。しかし、そんな中でも、ある程度信頼関係が築かれたと感じられてから後に、こちらの感じたことや考えたことをはっきりとお伝えしなければいけないこともある。そのような私の発言のなかで極めて評判の悪い言葉がある。それは「あなたの現在の苦しみの原因の多くは、たしかにご両親にあるかもしれない。でも、大人になってしまった今のあなたにとって、それをどうするかの責任はあなたにあると思います」という言葉である。

 私がこのように言う相手は、両親が昔から毎日のようにひどい夫婦喧嘩や児童虐待に近いことをしていたり、そこまでいかなくとも精神的に幼すぎる親だったために、大人になった今も心理的にとても苦労しているという方々である。ここで言う心理的な苦労とは、主に極端に自信が持てない、人をなかなか信頼できない、感情が不安定になりやすい、あるいは気分が落ち込みやすく元気が出にくいなどの苦しみである。

 これらの苦しみは、決して甘えやわがままではなく辛く深刻なものである。しかし、それでも時々私は「それをどうするかの責任はあなたにある」と言わざるを得ない。それは、ご本人が「今の苦しみにとらわれて、そこに安住しようとしている」とか「その苦しみを振りかざしている」と確信できる時である。もちろん苦しさは深刻なものなので、一時的には安住したり振りかざしても無理はない。それでも、たとえゆっくりとでもそこから抜け出そうとしている時には、それを応援したり一緒に作戦を練ったりできる。けれども、「安住」や「振りかざし」が長期に続いていて、いっこうに抜け出そうとしている様子が見られない場合には、上記のように言わざるを得ないのである。

 それでも、この私の発言はすこぶる評判が悪い。どうやらこの「責任」という言葉が受け入れられにくいようだ。

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ウチとソトの境界

井上 順孝(国学院大学教授)

(1)オウム真理教事件の衝撃の余波

 1995年3月に起こったオウム真理教による地下鉄サリン事件の後、いくつかの仏教宗派から講演を依頼された。おそらくオウム真理教が関わった一連の出来事に大きな衝撃を受けたと考えられる。実際、講演に際しては、これほどの犯罪を犯し、かつ事件以前にも社会的に批判されることの多かったオウム真理教に、なぜ多くの若者が引き付けられたのかという点について知りたいという要望が多かった。

 そこで、私は若い世代にとって伝統仏教宗派は若い世代が身近に話を聞きたくなるような雰囲気ではないこと、それに対しオウム真理教は、さまざまなメディアを用いて若い世代にアプローチしようとしたことを紹介した。その目的をみるなら、批判の対象となるが、その手段だけみるなら、時代の変化を採り入れていた。この点では伝統宗教も考えるところがあっていいのではないかという話もした。

 どうやら、この点に不快さを感じた僧侶の方が何人かいたことをあとで知った。理由を聞くうちに、分かったことがある。私はオウム真理教の活動の善悪に関する部分は、すでに社会的結論は明白であるから、それについて細かく議論する必要はないと思った。むしろ彼らの行動の仕方や特徴を分析することで、何を教訓とすべきかを語ろうとしたのである。

 しかし僧侶の中には、そもそも伝統仏教宗派とオウム真理教を同じ次元で比べること自体に不快を感じる人がいたということである。自分たちの宗派はしっかりとした宗教活動を行っているのを大前提とした上で、オウム真理教がそれとは根本的に異なる「破壊的カルト」である理由について、明らかにして欲しかったのである。

 むろん、この気持ちは十分理解できるものである。このような凶悪な犯罪を起こした団体は宗教ではないとして、自分たちとの間に明確な境界線を引きたいのであろう。けれども、そのときの境界線の基準は何であろう。無造作に引くわけにはいかない。また一般的に言って、線引きをすること自体が、意図せざる差別という新たな問題を生みだしかねないということもある。

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