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「明日への提言」

ウチとソトの境界

井上 順孝(国学院大学教授)

(1)オウム真理教事件の衝撃の余波

 1995年3月に起こったオウム真理教による地下鉄サリン事件の後、いくつかの仏教宗派から講演を依頼された。おそらくオウム真理教が関わった一連の出来事に大きな衝撃を受けたと考えられる。実際、講演に際しては、これほどの犯罪を犯し、かつ事件以前にも社会的に批判されることの多かったオウム真理教に、なぜ多くの若者が引き付けられたのかという点について知りたいという要望が多かった。

 そこで、私は若い世代にとって伝統仏教宗派は若い世代が身近に話を聞きたくなるような雰囲気ではないこと、それに対しオウム真理教は、さまざまなメディアを用いて若い世代にアプローチしようとしたことを紹介した。その目的をみるなら、批判の対象となるが、その手段だけみるなら、時代の変化を採り入れていた。この点では伝統宗教も考えるところがあっていいのではないかという話もした。

 どうやら、この点に不快さを感じた僧侶の方が何人かいたことをあとで知った。理由を聞くうちに、分かったことがある。私はオウム真理教の活動の善悪に関する部分は、すでに社会的結論は明白であるから、それについて細かく議論する必要はないと思った。むしろ彼らの行動の仕方や特徴を分析することで、何を教訓とすべきかを語ろうとしたのである。

 しかし僧侶の中には、そもそも伝統仏教宗派とオウム真理教を同じ次元で比べること自体に不快を感じる人がいたということである。自分たちの宗派はしっかりとした宗教活動を行っているのを大前提とした上で、オウム真理教がそれとは根本的に異なる「破壊的カルト」である理由について、明らかにして欲しかったのである。

 むろん、この気持ちは十分理解できるものである。このような凶悪な犯罪を起こした団体は宗教ではないとして、自分たちとの間に明確な境界線を引きたいのであろう。けれども、そのときの境界線の基準は何であろう。無造作に引くわけにはいかない。また一般的に言って、線引きをすること自体が、意図せざる差別という新たな問題を生みだしかねないということもある。

(2)ウチとソト

 オウム真理教のような団体が念頭にあるときは、「あるべき宗教の姿」と、「あってはならない宗教の姿」という境界線は、かなり明確に引けそうに思える。あるべき宗教がウチに位置すれば、あってはならない宗教はそのソトに置かれることになる。ところが、この排除したいものをソトに置くという行為が、実はなかなかあやういのである。

 宗教社会学の古典的理論について解説しようとするときには、ウェーバーとデュルケムの名前は必ずあげられる。この二人とそれほど違わない頃に活躍した社会学者にジンメルがいる。ジンメルは、社会的場面で起こる人間の心理について、きわめて興味深い見方を提起した人である。ウチとソトを考える上でも、非常に示唆的な指摘をしている。

 それは「排除されていない者は包括されている。」という考え方である。誰かを排除するという動きがあったとき、ふつうは3通りのグループができると考えられる。つまり、「排除する人」、「排除されている人」、「どちらでもない人」である。

 ところがジンメルは、最後の「どちらでもない人」は、排除する側にいると考えたのである。いじめなどの場面を想像すると、これはわかりやすい。いじめがあったとき、これを見て見ぬふりをする人がいる。そのことがいじめを継続させたり、エスカレートさせたりする。それは関与しない(排除されていない)人が、いじめる人(排除する人)の側にはいっているということである。

 こういう発想をしたジンメルはユダヤ系の学者である。ユダヤ系であったため、ウェーバーが推薦したにもかかわらず、ドイツの名門校であるハイデルベルク大学の教授就任が叶わなかったという経験をしている。宗教的には父親はカトリックに改宗していたし、母親はプロテスタントになっていた。ジンメル自身も母親の影響でプロテスタントの洗礼を受けている。にもかかわらず、ユダヤ系ということで差別を受けた。

 社会科学や人文科学の有名な学者には、ユダヤ系の人が多い。デュルケムはユダヤ教のラビの息子であった。贈与論で知られるモースは、デュルケムの甥でユダヤ系である。親族の基本構造に着目し、人類学で必ず名前が出されるレヴィ=ストロースもユダヤ系である。「社会的現実は意識の一形態である」という見解を抱いたピーター・バーガーという著名な宗教社会学者もユダヤ系である。

 彼らは国を失い東ヨーロッパやイベリア半島などに散ってディアスポラを体験した民族の歴史を知っているはずである。社会が作り出す排除や排斥の理論、その中で生まれた社会構造といったものに強い関心を抱く学者が多いのは、偶然には思えない。

(3)宗教/カルト

 ウチをつくろうとするからソトができる。するとウチを作り上げる側が、なにを基準にそうしているかを考えなければならない。

 オウム真理教の場合さえ、その教え、実践、活動すべてが、宗教とはほど遠いものだとするのは難しい。なによりもピーク時に1万人を超えたといわれる信者の大半は、自分は宗教的な修行に励んでいると思っていたようなのである。信者たちは騙されていたのだと言って、片付けられる話でもない。

 2011年7月に宗教情報リサーチセンター編『情報時代のオウム真理教』(春秋社)が刊行された。この本は、同センターの研究員が中心になって、10年以上の歳月をかけて完成したもので、オウム真理教関連の多種多様な資料・データ類と、じっくり取り組んだ成果である。

 この作業に関わって、あらためて感じさせられることがあった。その1つが、いわゆる「カルト問題」の扱いの難しさである。ここでのカルトは宗教社会学で用いられてきた組織の特徴をあらわす用語ではない。反社会的な宗教団体とでもいうような意味合いで社会に広まってしまった、いわばバズワード的な用法としてのカルトである。

 仮にカルトという概念を用いるとして、ある団体をカルトとして認める基準は何かである。地下鉄サリン事件後は、オウム真理教は典型的カルトということになったが、事件前はそうとも限らなかった。信者は他の教団よりもむしろ真摯に修行に励んでいると、一定の評価をする研究者や評論家もいた。マスコミの中には、面白がって教団の活動や麻原彰晃のパーソナリティを評したものがあった。テレビにも麻原を登場させた番組がいくつかあった。オウム真理教はカルトなのだという社会的評価は、事件後確定したのである。

 オウム真理教に限らず、新しく登場した宗教団体の活動が、社会的批判を浴びることがある。批判がそれなりに根拠をもつ場合もあれば、偏見や誤解に基づいているとみなせそうな場合もある。批判を受けるのがもっともな宗教団体があったとして、それをカルトと呼ぶのがいいかとなると、これまたそう簡単ではない。

 何か悪しきものを切り捨てたいという気持ちは、人間がもつ一つの傾向であろう。無差別テロという現実を目のあたりにすれば、これを宗教ではない、破壊的カルトであるとして、別カテゴリーに置けば、宗教をめぐる根源的な問いから、一応遠ざかることができそうである。根源的問いとは、宗教は果たして社会的に善なる存在であるのか、というような問いである。しかし、別カテゴリーに置いて話が終わるわけではない。その「種分け作業」の営みそのものが、問いをつきつけてくるのである。

(4)ニューラルネットワークモデル

 善悪の判断は人間にとってきわめて重要である。だが厄介なことに、自分が善いことだと思っていることでも、立場が変わるとそうでもなくなることが少なくない。

 平和がいい、戦争を止めよう、というような、おそらく誰も反対しそうにない主張でさえ、それは都合が悪いと思う人がいる。武器商人にとっては、戦争がまったくなくなることは死活問題であるから困るであろう。自分たちまで危なくなるような状況は困るが、どこかで紛争が起こっていた方が都合がいい、そうした考えがあるに違いない。

 平和運動のようなものさえ、誰もが賛成するとは限らないとすれば、宗教的信念に基づく主張が、反対意見と出会うのは避けがたいように思われる。

 善と悪に基づくある価値を共有する人同士が集まって何かをしようとするとき、それが意図せざる排除、そして不要なる争いを招かないようにするには、どうしたらいいのであろうか。簡単な方法があろうはずもないが、ウチとソトの境界線は、ソフトであった方がよいのではないか。

 最近の脳科学とコンピュータ技術の組み合わせは、人文科学にも刺激となるような知見を次々と生み出している。例えば、われわれが多様な環境の中で、生存に必要な反応をどうやって作り上げていくのかという問題は、ニューラルネットワークという分野でさかんに研究されている。

 脳は基本的にトライアンドエラーで学習していく。失敗しないと何が不適切か、何が避けるべきことか分からないからであろう。ニューラルネットワークには、バックプロパゲーション法という手法がある。これは誤った結果が出た場合、途中の判断の重みを調整することを繰り返すやり方である。これを多少乱暴ながら、人間集団に応用するならこうなる。組織は最終的にある判断をするわけだが、それが吉と出るか凶とでるか、それによって、判断に関わった途中の人びとの意見の重さを見直すということである。平たく言うと、的確な判断をする人とそうでない人の意見には、差をつけて耳を傾けるということである。

 このプロセスも万能ではない。ローカルミニマムという落とし穴にはいってしまうからだという。最適解ではないのに、周りに比べると局所的に最適であるので、そこに落ち着き、抜け出られなくなるということである。こうした理論も宗教をめぐる厄介な議論に、参考にしうる。ウチとソトの境界線は、ある目的を達しようとする際に、どうしても必要である。しかし、それが思わぬ排除を生みださないようにするには、自分たちの設けた境界線の適切さを、試行錯誤の中に確認していく作業が有効である。反対意見にも常に耳を傾けることの重要性は、最新の脳科学の研究成果にも支持されていると言える。


◆プロフィール◆

井上 順孝(いのうえ・のぶたか)       (1948年生)

 鹿児島県日置郡に生まれる。

1971年 東京大学文学部卒業

1974年 …東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。東京大学文学部助手、國學院大學日本文化研究所講師等を経て、2002年より同神道文化学部教授。1998年から宗教情報リサーチセンター長。

著書:…『若者と現代宗教』(ちくま新書、1999年)、『神道入門』(平凡社、2006年)、『図解雑学宗教(最新版)』(ナツメ社、2011年)、『本当にわかる宗教学』(日本実業出版社、2011年)など多数。

(CANDANA249号より)

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