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「明日への提言」  バックナンバー: 2013年

新宗教における過疎と高齢化

渡辺 雅子(明治学院大学社会学部教授)

■伝統仏教にとっての過疎問題の切実さ

伝統仏教では、過疎地域の寺院のことが以前から切実な問題として取りあげられてきた。『曹洞宗宗勢総合調査報告書』(2005年)によると、調査対象寺院14,637カ寺のうち、24.6%にあたる3,597寺が過疎地域に立地している。過疎地域の寺院の23%が専従の住職がおらず兼務者によるもので、無住の寺院も3%ある。過疎地域の37%の寺院には後継者がいない。

このほか、日蓮宗現代宗教研究所や浄土宗総合研究所においても継続的に過疎地域における寺院についての実態調査が行われ、今後のあり方について検討されてきた。過疎地域では、壇信徒の減少、寺族の生活苦、住職不在、後継者不足、寺院建築物の維持困難が起きている。伝統仏教では過疎は寺院の存立基盤を揺るがす問題としてある。 続きを読む


原子力と現代の宗教者の使命

眞田 芳憲(中央大学名誉教授)

 2011年3月11日に発生した東日本大震災は、未曾有の被害をもたらした。多くの尊い生命が犠牲となり、自然環境・社会環境・生活環境が破壊された。今や、大震災からすでに2年半有余の歳月が過ぎようとしている。しかし、その悲惨な傷痕は今なお、いたるところに残っている。特に福島県の人々は地震・津波・原発事故・風評による被害の四重苦の中で精神的にも肉体的にも、そして政治的にも経済的にも社会的にも苦しい生活を強いられてきた。それなのに、今度は「風化」という忘却の彼方に追いやられ、この国やこの国の人々から見捨てられようとしている。彼らは、今や五重苦の苦難の淵にたたずみ、将来の見通しも立たない不安な生活の中で、「いつになれば人間としての生活が取り戻せるのか」と自問しつつ生きている。 続きを読む


宗教活動の革新を生む土壌──タイにおける開かれた僧院組織

矢野 秀武(駒澤大学准教授)

1、タイ仏教の制度的特徴への注目

東南アジアに位置するタイ王国は、日本とゆかりの深い国の1つである。昨今では日系企業の工場だけでなく、日本の飲食業界の進出も目を見張るものがある。日本からタイを訪れる観光客も毎年100万人を優に超えており、また約5万人の日本人がタイに住んでいる(2011年)。一方、日本に居住しているタイ人の人口は約4万3千人となっている(2011年)。近年ではタイから日本への宗教面での流入も見られ、少なくとも3系統の団体が、それぞれのタイ寺院を日本に建立している。今後日本でも、タイなどアジア諸国の宗教関連情報の必要性が増して行くことだろう。

筆者はこれまでタイの上座仏教の研究を行ってきた。当初は、都市中間層を中心に広まった新興の仏教集団であるタンマガーイ寺について研究を行っていた。日本にも多くの支部を持つ寺である。この寺は、経済成長期が始まったタイの人々の感性に呼応した活動を展開し、初心者も実践しやすい独特の瞑想を基盤に、イベントやメディア戦略・IT 化なども自覚的に取り入れ、多くの若者の興味を引き付けてきた。

その後筆者は、タイの宗教行政や宗教制度についての研究を行ってきた。それは、タイの宗教、特に仏教が多様な活動を展開できる制度的背景を明らかにすることにもつながる。例えば、タンマガーイ寺を含め、タイでは一般社会に積極的に関わる仏教の諸活動が数多く現れている。教育や福祉などの公的領域での活動で注目を浴びている僧侶なども少なくない。その背景には、いわば宗教への国家介入的な制度と、その制度を可能な範囲で使いこなす宗教者との間の、相互関係がある。日本の宗教の公共性をめぐる在り方を考察するうえで、参考になる知見も少なくない。

タイの一部の僧侶や宗教者の活動は、これまでも日本で紹介されてきた(例えば開発僧など。開発僧とは仏教の教えや儀礼的慣習に基づきつつ、住民参加型の地域開発や精神的指導を行う僧侶)。確かにタイの個々の宗教者から我々が学ぶべき点は多い。しかし個々の活動や精神性から学ぶだけでなく、多様な運動や革新(イノベーション)を生み出す柔軟な制度や仕組みにも、我々は注目すべきだろう。以下、そう言った点から、タイの宗教事情を紹介してみたい。 続きを読む


躊躇(ためら)い、立ち止まり、省察すること─平和に生きるために─

李 贊洙(ソウル大学研究教授)

新自由主義時代

世の中が平和だったことはそれほどなかったように思えるし、安らかに生きているという人もそれほど多くはなさそうに見える。みなが悩みと困難をいっぱいに背負って生きている。この社会は、どのような理由で、平和ではないのであろうか。

今日、社会は少なくとも外見上では、平等である。人は同じスタートラインに生まれたと考えて、何か分からぬまま、同一の目標に向かって競争するように生きていく。世界が産業社会に編入され、経済構造の中核に製造業に代わって金融業が据えられてから、そのような傾向がとみに目立ち始めた。

それでも資本主義は、国家や政府の統制を受けて、国によっては他の様相を帯びることもあるが、この頃の世界経済は、市場原理主義を受け入れた規制緩和や民営化・低福祉など、政府がとる諸政策のなかで、統制不能で単一の、絶え間ない競争状態に置かれている。これが資本主義の変形である新自由主義なのである。

資本主義は、より多くの資本を生み出すために個人の最大限の主体的能力を発揮することを要請し、多くの成果を急き立てるように要求する。ところが、法的には少なくとも自由と平等の社会であることが建て前にある以上、強制的に人を働かせることも困難な社会である。そこで、個々人は競争から弾かれぬよう、自らを搾取して成果を最大化し始めた。成果主義の社会の本質が、個人の自由を越境してきたわけである。 続きを読む


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