李 贊洙(ソウル大学研究教授)
新自由主義時代
世の中が平和だったことはそれほどなかったように思えるし、安らかに生きているという人もそれほど多くはなさそうに見える。みなが悩みと困難をいっぱいに背負って生きている。この社会は、どのような理由で、平和ではないのであろうか。
今日、社会は少なくとも外見上では、平等である。人は同じスタートラインに生まれたと考えて、何か分からぬまま、同一の目標に向かって競争するように生きていく。世界が産業社会に編入され、経済構造の中核に製造業に代わって金融業が据えられてから、そのような傾向がとみに目立ち始めた。
それでも資本主義は、国家や政府の統制を受けて、国によっては他の様相を帯びることもあるが、この頃の世界経済は、市場原理主義を受け入れた規制緩和や民営化・低福祉など、政府がとる諸政策のなかで、統制不能で単一の、絶え間ない競争状態に置かれている。これが資本主義の変形である新自由主義なのである。
資本主義は、より多くの資本を生み出すために個人の最大限の主体的能力を発揮することを要請し、多くの成果を急き立てるように要求する。ところが、法的には少なくとも自由と平等の社会であることが建て前にある以上、強制的に人を働かせることも困難な社会である。そこで、個々人は競争から弾かれぬよう、自らを搾取して成果を最大化し始めた。成果主義の社会の本質が、個人の自由を越境してきたわけである。
地球規模の危険な社会
新自由主義のこのような流れのなかで、世界はこれまで以上に‘リスク’を背負い込んでいる。ウルリッヒ・ベック(Ulrich Beck)が『危険社会』(Risikogesellschaft)で分析し、警告したように、近代は産業社会を経て、リスクをはらんだ社会となった。産業社会の発展をもたらした科学技術は、過剰な産業生産を可能にするほど、逆に豊かな社会にたいするリスクを内包し、人類の脅威となった。
このリスクが社会の発展の名のもとに隠蔽され、人間の日常的認識能力と統制力を飲み込んでしまうほど、災難の根源として作用することになったということである。
今日、リスクは国内ではおさまらず、国境を越え、地球規模に広がっている。日本に黄砂現象があるように、中国から大気汚染物質が飛来する。日本の原発が損傷すれば、アメリカまで影響を及ぼす。私たちが口にする食物の相当の部分が、諸外国からの輸入品である。国境は政治的には相変わらず存在するが、経済や環境問題などの領域では、その境界は透明度を増している。
このような世界の状況下において、リスクはそれが及ぶ範囲内で、その影響を受ける人びとを平等化する。しかし、危険に巻き込まれた場合、階級や富の程度によって、その内部で新たな社会的不平等が生まれているのも事実である。福島第一原子力発電所の事故の影響は、だれにも平等に作用するが、富裕層は危険を避けて他の地域へより速かに移住することが容易であったであろう。食の安全を考えれば、割高な低農薬や有機農法による野菜も富裕層が食べることになる公算が高い。
さらには、リスク社会そのものを商売として、利益を得る人々もいる。新たな産業は、その成果とは裏腹にリスクを形成するものだからである。
リスク社会がさらに危険な、その根本的な理由は、自身の成果が結局は自身の脅威となるという事実から目を背けさせ、忘却するように仕向ける社会であるところにある。
原子力発電による電力受給の恩恵を被っているこの社会は、原子炉の損傷という不慮の事故の起こり得るリスクを社会の発展の名のもとに隠蔽しようとする。当事者を含めた社会全体が危険に陥り得る事実から目を反らさせ、知っていながらも実行できないように、社会のシステムがそのように働いているのだ。
リスクは一時的な恩恵者を含んで、結局は、全人類に悪影響を及ぼす。リスクは社会に与える新しい暴力でもある。そこで、ベックは、人類が作り上げてきた経済的発展をあきらめ、既存の産業社会の構造を変更してでも、リスクを封じ込めることが喫緊の課題であると考えている。
疲労社会と宗教
成果主義の社会の基盤から生まれたリスク社会は、人をよりいっそう疲労困憊させる社会でもある。在ドイツ韓国人哲学者ハン・ビョンチョル(Han, Byung-Chul)が『疲労社会』(Mudigkeitsgesellschaft)で語るように、成果主義の社会は、近代以前の、ある行動をさせないような否定的な社会ではなく、何かをさせようとする肯定社会である。かつての禁止・命令・法律の場所に、今日ではプロジェクト・イニシアチブ・モチベーションなどの言葉がとって代わっている。
成果主義の社会は自己主導的な人を要請する。そこでこそ自己のアイデンティティが確認され、他者にもその成果が認められるのである。だが、自己主導的なるがゆえの‘自由’であるはずの仕事も、その実は、目に見えない‘強制力’に身をゆだねなければならないというのが現実である。成果主義の社会では、自らが‘自由’の被害者となるのだ。
一方、この時、見えない強制力に疲れ、仕事にたいして自己主導的になれないのであれば、それだけ挫折感も大きくなる。その挫折に対する病理学的表現がうつ病である。うつ病は21世紀型の病気であり、成果主義の社会で疲れきった魂の表現である。この成果主義の社会では、うつ病患者や競争からの落伍者が量産される。
そのような社会において、人々は、なおさら疲れた心を慰め、癒す場所を求めるであろう。宗教教団の大型施設もこのようなニーズのなかで建設されている。ところで、癒された人々は、その後、どのようになるのであろうか。癒しの内容を観察して見るならば、マックス・ヴェーバー(Max Weber)が指摘する勤勉を称揚するプロテスタンティズムと資本主義精神の関係のように、よく宥なだめる行為は、もう少し良い成果を上げろという無言の圧力ともなり得ることが理解できる。より多くの成果を上げるならば、それだけ神の祝福があると認識するように仕向けられているのだ。こうした観点でいうならば、この社会に認知された大型の宗教教団であるほど、成果主義社会の見えない尖兵の役割を果たしているといえないであろうか。
躊躇(ためら)い、立ち止まり、省察すること
成果主義の社会は、中断も休息もなく、疲労困憊と脱力状態とを引き起こす。社会の加速化と過剰な活動のなかで、人間は怒る方法も忘れてしまった。怒りは流れを止めて抵抗する行為であり、ある状況を中断させて新しい状況を始まらせる能力でもある。
ところが、成果主義の社会では、怒るといっても、ただ個人的な感情の領域に留まる。スピードに飲まれて、立ち止まることが難しくなった人間は、創造的怒りというよりは、消耗的な嫌気をいい、腹を立てる。社会的な変化を起こせぬまま、嫌気と神経質が社会に広がる。癇癪は事態を止めることができず、社会にたいして怒ることすらできないことからくる神経疾患である。
現代は、癇癪と神経質の社会だとしても過言ではない。機械は怒らない。少しの間でも止まろうと思わず、躊躇おうともしない。ところが、愚かである。躊躇う能力がなく、従順に成果だけを出すように組み立てられているからである。今日私たちは、このような機械と果たしてどのくらい違いがあるといえるのだろうか。
状況がこのようであることから、確信に満ちた代案を指し示すことも容易(たやす)くない。『疲労社会』のなかでも、現代社会をでき得るかぎり批判的に分析し、結局は、今の状況を見極めるよう観照し、思索しなければならない、すなわち、‘省察’しなければならないといった、多少非現実的な処方箋を示す。
省察は怒りが純化されて、その目的が実現されていく第一歩である。既存の流れを中断して取り戻すための主体的な努力である。既存の流れで見れば、省察は非現実的で非生産的となるが、‘現実’という流れから脱することができないのであれば、疲労社会から脱することができないことも明白である。現代は、観照と思索、そして省察がより一層要請される時代である。
平和を目指す宗教
平和学者であるヨハン・ガルトゥン(Johan Galtung)は、構造的に葛藤と暴力がない状態、さらに、文化的暴力さえもない状態を‘積極的平和’(positive peace)という言葉で定義した。積極的平和は、まるで‘浄土’や‘神の国’とも同じに感じられるほど理想的な状態である。宗教の理想を社会科学的に表現するならば、このような言葉になるであろうか。
ところで、このような理想は、どのように成し遂げることができるのであろう。宗教者の立場より見れば、何よりも成果主義の社会に飲み込まれたことからくる疲労状態から一歩脱して、脱した立ち位置から見えない強制的暴力の犠牲者を救出し、競争社会での落伍者がないよう助ける方法が成り立つということでなければならないであろう。宗教者は人々に寄り添い、ゆっくりと「共に行く人」でなければならない。共に歩けば、当然、遅く行かざるを得なくなる。だが、そのように遅く行くことを覚悟した人であってこそ、宗教者としての資格を有するであろう。「一切衆生(いっさいしゅじょう)病(や)むを以(も)って、是(こ」の故(ゆえ)に我病む」(『維摩経』「文殊師利問疾品」)という、維摩居士の言葉に、平和の社会性と関係性を全身で悟っている者の声を聞く。地球規模のリスクを背負った社会のなかで広がる葛藤と痛みを、宗教者は、自分のこととして共感する人であらねばならない。
福島第一原発の建屋がガス爆発を起したが、東京にいて心の平安だけを追求するならば、それが果たして平和なのであろうか。リスク社会と疲労社会は、加速化して進行し、大量消費を助長する無言の衝動でもある。しかし、それは、わたしたちが、共に、そして、ゆっくりと確実に歩を進めながら、治療しなければならない対象でもあるのだ。
急かされ、大量生産しなければならない構造のなかで、‘遅いこと’は、進歩に逆行しているといわれるかも知れない。それにもかかわらず、リスクの水準を低くするためには、遅く行かざるを得ないのである。平和を成し遂げるには、強いられてある‘自由’という名の強制力から、‘躊躇って’立ち止まり、‘省察’する時、平和という理想と反平和的な現実との分かれ道が明白となる。その強要された流れの外に身を置き、宗教の理想を各自が確認しなくてはならない。宗教の名のもとに反平和的疲労を積み上げて生きていくことはできないではないか。自分の平和を実現しない者が、どうして社会の平和を成し遂げることができるというのであろうか。
(日本語訳:李 史好)
◆プロフィール◆
李 贊洙(Yi Chan Su) (1962年生)
韓国・京畿道生まれ。西江大学化学科を卒業し、西江大学大学院宗教学科にて文学碩士(仏教学)、文学碩士(神学)、文学博士(比較宗教学)の学位を取得。江南大学教授、韓国対話文化アカデミー研究員、佼成学林客員講師などを経て、現在、韓国KCRP出版委員長であり、韓国ソウル大学統一平和研究院HK(Humanities Korea)研究教授として在職しながら、中央学術研究所特別研究員として日本で研究中である。
著書に『불교와 그리스도교,깊이에서 만나다』(仏教とキリスト教─深奥での出会い)、『생각나야 생각하지』(思えて思う)、『종교로 세계 읽기』(宗教で世界を読む)、『인간은 신의 암호』(人間は神の暗号)、『한국 그리스도교 비평』(韓国キリスト教批評)、『일본정신』(日本の精神)、『믿는다는 것』(信じるということ)など多数。
(CANDANA253号より)