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「明日への提言」

良寛に学ぶ

加藤 僖一(新潟大学名誉教授)

1.子供への愛情

 良寛さんといえば、子供たちと無邪気に遊んだ人というイメージが強い。遊びの内容としては、まりつき、かくれんぼ、空中習字等が代表的である。まりつきにはマリが必要だが、当時はゼンマイのワタを中にして、そのまわりを糸でグルグルとしばったものだから、それほど高価な費用はかからない。かくれんぼは全く何の費用もかからない。空中習字も、一般的に習字をするには、筆、墨、紙等が必要だが、良寛の空中習字は、大空に向かって「いろは」や「一二三」を書く程度だから、全く費用を必要としない。
 それより良寛はなぜ子供たちとよく遊んだのか。従来、良寛がお百姓とともに田畑を耕すわけではなく、ただ両親が田畑で働くあいだ、子守役をしたという程度に考えられていたが、群馬県高崎市在住の町史研究家・永岡利一氏によって、新田町の木崎におびただしい飯盛り女たちの墓石があることを見出し、研究に着手された。その墓の文字を読んでゆくと、新潟県出雲崎、寺泊、地蔵堂等の出身者が多く、それはまさに良寛の住んでいた地域と年代に合致しているのであった。墓を建ててもらった人はまだ運がよい方で、大半は大きな穴を掘って、埋められたという。越後は米の生産地として知られるが、いざ台風に襲われたりすると、一気に大水が出て、丹精した稲が一度に流され、年貢におさめる米も、自分たちが食べる米もなく、娘を売る以外に何の方法も考えられなかった。売られていった娘たちは右も左もわからぬまま、土蔵に閉じ込められて折檻され、多い時は1日に10人もの客をとらされたそうだ。
 お金で買ってきた娘たちだから、おそらく食べるものも十分ではなく、夜寝る前には「お母さん」の名を呼んで、涙を流していたに違いない。
 良寛は毎日遊んでいる娘たちの中に、いつ売られてゆくか知れない実態を承知していて、たとえ短い時間でも、楽しかった思い出を作らせようと考えたのではなかろうか。
 こう書いてくると、群馬の人たちは何と残酷な、と思われるが、やはりそれぞれの立場でそういう生活を営まざるを得なかったのであろう。
 なお昭和61年に作家の水上勉氏が『良寛を歩く』を日本放送出版協会(現在の株式会社NHK出版)から出版され、木崎の飯盛女の話が、かなり公然と知られるようになった。
 なお平成23年10月20日、新潟市中央区古町通りに全国良寛会の「ふるまち良寛てまり庵」が開設された。その数軒隣に「明和義人館」があった。それまで私は「明和義人館」とは何なのか全く知らなかったが、立て看板の解説を読むと、「明和5年(1768)、前年からの大飢饉により、長岡藩に納めなければならない1500両のうち、半金の750両は捻出できず、とうとう9月26日の夜12時ころ、涌井藤四郎、岩船屋佐次兵衛をはじめ千人近くが蜂起し、約2か月の間、町民による町政が行われた。その後町民一揆は鎮圧され、中心人物は極刑に処せられた」と説明されている。私が現在住んでいる新潟市内で、こういう事件があったのである。明和5年といえば、良寛の11歳にあたり、まさに良寛の少年時代であった。良寛の時代はまさしく、こういう状況であった。
 なお越後平野の洪水被害は、170年をついやして、信濃川の本流から日本海へ水を流す分水が作られ、水流を調節して洪水が避けられるようになった。
 当時は何の機械力もなく、ただスコップで砂をかき出すだけで、殉職者は83名、工事の完成は大正13年3月であった。
 現在の平和な生活は、過去のこうした人々の犠牲によって、成立しているのである。

2.仏向上の人・良寛

 良寛の代表作に『法華讃』がある。これは良寛が法華経28品を熟読し、102首の漢詩を作ったものである。1つには法華経の教えに対する真率な讃仰を披歴、2つには祖師禅の立場から、〈仏向上〉(仏の更に上へ越え出た)の消息を語りつつ、自在に法華経を転じてみせたもの――日本学士院会員・入矢義高先生の解説。私はこの時「仏向上」という言葉を教えられたのだが、良寛は師匠の教えなどは純粋に受けとめて、更にその上に越え出でようなどとは考えなかっただろうと思っていた。ところが中国の禅語録「臨済録」や「碧巌録」などを読むと、「修行を積んで師匠と同じ程度に達しても、それでは師匠の徳を半分に減らしてしまう。そうならない為には師匠の上へ乗り越えなければならない」と書かれている。良寛は釈尊、道元、国仙等の徳を半分に減らさないように、死に物狂いになって修行を重ねたのであろう。それもまた、いかにも良寛らしい純粋な心だと思う。
 もっともそんな哲学的に考えずとも、日常のあらゆる分野(学問、芸術、政治、スポーツほか)で、弟子が師匠に及ばなければ、その道は衰退の一途をたどるのみで、師匠を越えなければ、その道の進歩はありえないわけである。(なお入矢先生からは、新潟大学の全学講義に出講していただいたり、京都のご自宅をお訪ねしたりして、貴重なご指導をたまわった)。
 ところで私はこの『法華讃』と不思議な関係があり、まず昭和55年、新潟県曹洞宗青年会が、良寛没後150年の記念出版として『良寛和尚の宗教――評釈法華転・法華讃』(駒澤大学教授・石附勝龍氏著、のちに雲洞庵に入り、新井勝龍氏)が出版された。ところが『法華讃』の文章は、それまでの『良寛詩集』3種ほどに掲載されているが、詩数に長短があったり、詩句に相違があったりして本文が定めがたく、ぜひ自筆本をさがすよう命じられ、尋ねうるすべてについてさがしたが、どうしても見出すことが出来なかった、という。しかし私はその10年も前から、自筆本が妙高高原の宝物殿に保存されているのを知っていたが、当時の役員の皆さんに「加藤に聞いてみよう」という発想が無かったのであろう。
 旧蔵者は紙面がかなり痛んできた為、もと冊子本だったものを一枚ずつ切り離して、17面の額装に改装した。各紙の右下に漢数字を記入して順番を明記した。
 この保存法は絵巻物の代表作といわれる「源氏物語絵巻」の剥落が進み、一枚ずつ切断して
 額装化されたのに似ている。おそらく旧蔵者は非常に大切にした為、何人かの人に内覧は許したが、撮影は許可しなかったのであろう。原本が撮影されていれば、文章は動かしてみようがない。
 そこで私は吉沢平次氏の許可を得て撮影し、昭和57年7月、求龍堂から精巧な『良寛・法華讃』を刊行した。歴史上初めての快挙といえよう。
 その後、北川省一、飯田利行、柳田聖山、竹村牧男、武田寛弘の各氏が、その真跡本による注釈本を刊行された。特に竹村牧男・東洋大学学長は、小著を「加藤本」と呼称して下さった。かくて法華讃研究は、加藤本以前と加藤本以後とに大きく分かれることになった。
 ところが平成12年9月、宝物殿の2代め吉沢昭宣氏(元東京大学助教授)から販売のご相談を受け、当時の長谷川義明新潟市長にお願いして3,600万円で購入が決定され、以後新潟市の所蔵となった。
 この『法華讃』の出現によって、良寛の仏向上の心が確定されたのは、大きな収穫であろう。

3.何にもならないことをする

 良寛は子供たちと無邪気に遊び、釈尊をも乗り越えようとする激しい修行を積んだが、高齢化してくると、まず身体の動きがにぶくなり、頭脳の働きも衰えてくる。私たちが何か行動を起こす時には、何らかのメリットを期待する場合が多いであろう。しかしさすがの良寛も、晩年には壁にもたれて、両足を2本のばし、ポケーッとしているようになる。読経や詩歌や書の制作をするでもなく、何をしているのかといえば、蛙の泣き声や雨の音を聞いているだけで、全く生産性がない。良寛の生き方に似ているといわれる澤木興道老師が九州で講演をされた時、ある大学生から「坐禅はなぜするのか」と質問され、「何にもならないからこそ・・するんじゃ」と答えたという。更に「なぜ何にもならないことをするのか」と再質問され、「何にもならないからこそするんじゃ」と答えた、という有名な話がある。
 良寛の最晩年6か月ほどは、激しい下痢と腹痛になやまされ、厠へ走ることもままならなかった。良寛の病名は直腸癌だったのではないかといわれるが、当時はまだモルヒネなどもなく、3日ほど絶食療法を試みたりしたが、違った意味で何にもならないことをしていたのではなかろうか。

4.良寛の書について

 私の専門は書道なので、最後に良寛の書について少しふれてみたい。
 最近では専門の書家も良寛の書に注目し、手本にも使うようになってきたが、どちらかといえば、書家以外の人の方が早かった。夏目漱石や安田靫彦の話は既に一般に知られているので、少し変わった人の意見をご紹介させていただこう。
 その1、数学者の岡潔氏(奈良女子大学名誉教授、文化勲章受章)は、

「私は、道元禅師や芭蕉は、いずれも自身や直弟子などの書いたものによって調べたのには違いないのですが、いずれも活字によってでした。真蹟の写真版によらないとよくわからないものがあることを教えられたのは、良寛さんによってです」(同氏著『月影』)

 と述べられた。なぜ良寛によってなのか、その理由はわからぬが、良寛の書が持っている霊力のようなものを感じとられたのではないだろうかと思う。生前にお目にかかりたかった一人である。
 その2は篠田桃紅氏(書家)で、

「今度発見された『法華讃』を、私は更に「書」であるということすら意識せずに見た。
 毛筆の機能の豊かさを使い尽さず、というより、そのほんの一端だけを使い、墨も又ほんの少しだけで、ただ書けるように書いてある。
 豊潤の対極にあり乍ら、これほど豊かなものはない。
 これは、何もないようで一切である。という、そういう書である」(『良寛・法華讃』の解説より)

 と書かれている。私は同氏を良寛の遺跡めぐりにご案内したり、又同氏のご自宅(アトリエ)にお邪魔させていただき、この超人と親しくさせていただいたりしたが、この文は良寛の書の豊かさを美しい文章で歌いあげておられる。
 新潟市民に限らず、一般の日本人が、こうした目で良寛の書を見ていただければありがたい。単純に「わからない」と片付けずに、もう一歩ふみこんで見てほしいものである。


◆プロフィール◆

加藤 僖一(かとう きいち)        (昭和11年生)

 東京生まれ。新潟大学書道科卒、京都大学文学部研修員、新潟大学名誉教授、良寛研究所長、全国良寛会顧問、正筆会顧問、新潟大学書道教育学会会長。新潟県知事賞11回、紺綬褒章、地域文化功労者(文科大臣表彰)、叙勲(瑞宝中綬賞)ほか。著書は100冊をこえる。新潟県立図書館に約70冊収蔵。代表作の『良寛の書全5巻10冊』は国立国会図書館開館30周年記念「戦後の本で見る日本」においてトップクラスの選定をうける。NHK、BSN、NST等各局のテレビ良寛講座に出演。中国関係では北京大学良寛研究会名誉会長、峨眉山良寛詩碑建立発願人、湛江師範大学教授、『良寛其人』を北京市現代教育出版社から刊行(中国文)。

(『CANDANA』275号より)

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