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「明日への提言」

現代の地域づくりを考える

北村 裕明(滋賀大学経済学部特任教授)

1.「おかえりモネ」の描く地域

 2021年度上半期のNHK連続テレビ小説「おかえりモネ」は、東日本大震災の被災地気仙沼で生まれ、震災を経験した主人公・永浦百音とその同級生達の物語であるが、現代日本の地域や地域づくりを考える視点を提供してくれている。

 ドラマは、主人公の百音が震災の際に仙台にいて、現地で対応できなかった悔いを抱きながら、高校卒業後気仙沼を離れ、登米の森林組合で働くところから始まる。そこで気象に関する専門的な知識が、地域の産業や防災に関係することを知り、気象予報士の資格を取得し、東京の気象情報サービス企業に勤め、経験を積む。そして、気象という専門性を生かして地域に貢献できるのではないかと思い、気仙沼に帰り、気象情報を利用した新たな仕事をおこす過程が描かれている。

 ドラマの中で、地域づくりという視点から見ると、いくつかの重要なことが描かれている。まず、産業が漁業と林業という潜在性はあるが困難を抱える地域で、「なりわい」を続ける強い意志を持った人々、百音の祖父でカキ養殖に携わる龍己や、森林組合長のサヤカの姿が印象的である。また、登米は、よそ者である百音を森林組合の職員として受け入れただけでなく、気象情報サービス企業のメンバーや研究者、森林体験や森林セラピーの事業を通じて多くの他地域の人々を受け入れている。気仙沼では、震災以降多くのボランティアの受け入れを経て、今でも都会の若者が地域で活動している。他地域の人々や若者の受け入れに寛容な地域の姿が描かれているのである。さらに、地域情報の交流と発信の場として、登米では、診療所とカフェを併設した森林組合が、気仙沼では震災を契機に立ち上がったコミュニティFM局が重要な役割を果たしている。市役所や町役場とは別に、民間ベースで地域情報を交流し発信する拠点があることが描かれている。そして、気象情報という専門性を生かして、漁業や林業を振興し、地域に根ざした防災対策を行う可能性が示されているのである。地域の資源を現代に生かすには、新しい知恵と知識が必要なのである。

 地域に根差して地域の振興を考え続ける人の存在、外部の人や若者を受け入れる寛容さ、地域づくりを行う情報交流や活動の民間の拠点、地域資源に新たな活用の方向を示す専門性は、今日の地域づくりにとって重要な要素である。「おかえりモネ」は、それらを的確に描き出し、今日の地域づくりの方向性を示しているとも言えるのである。

2.地域づくりの展開

 では、地域づくりという言葉はいつ頃から、そしてどのような文脈で用いられるようになったのだろうか。

 地域づくりという言葉が、著書や論文の表題として使われはじめたのは、1980年代から、とりわけ1990年代以降であるという。そして、地域づくりという言葉には、それまで国によって進められてきた地域開発政策への反省があったといわれている(小田切徳美『農山村は消滅しない』岩波新書2014年)。

 高度成長期以降の日本の地域政策は、五次にわたる「全国総合開発計画」(全総)を策定し、それに基づいて府県や市町村が地域政策を実施する手法で行われた。その特徴は、国が地域政策の戦略的目標を設定し、国庫支出金や地方交付税などの国の資金配分によって計画の実現をはかるという集権的性格を持っていた。例えば、1962年に策定された最初の全国総合開発計画では、地域格差の是正をはかるため、資本や労働や技術の適切な地域配置が必要であるとし、新産業都市を指定して、太平洋岸ベルト地帯に大規模石油化学コンビナートの形成をはかる「拠点開発方式」が採用された。その後の全総でもほぼ同じ手法がとられ、国がその時点での重点産業を決め、それを全国に広げるための資金配分計画を作成し、それにしたがって府県や市町村が地域政策を実施するというパターンが受け継がれた。テクノポリス構想であり、リゾート開発がそうした事例である。こうした地域開発の方式は、地域にない新産業を地域外の資金で誘致するという意味で、外来型開発と呼ばれている。

 外来型開発によって、確かに一部の地域では新たに工場が誘致され、地域の雇用と所得が増大した。しかし全国一律であったが故に、成果を上げた地域は限られ、工場用地は整備されたが進出企業は限られ、成果を上げることができない地域が多かった。さらに1990年代はじめのバブル経済の破綻が、それに追い打ちをかけた。リゾート開発に一縷の期待をかけた全国の多くの地域で、リゾート開発予定地が放置されたまま残されたのである。

 外来型開発の限界は、1970年代半ば以降認識されはじめ、地域の資源を見直し再発見し活用する内発的な発展への試みが生まれる。最初は開発の中で取り壊されつつあった歴史的資源や景観を保全しながら、地域の発展を図ろうとする動きである。1960年代に始まった中山道の妻籠や馬籠の宿場町の保全や再生、滋賀県近江八幡の八幡堀の再生は、そうした内発的な地域づくりの嚆矢ともいうべき事例であった。

 1980年代末以降の内発的地域づくりの中で、中心市街地の再生に成功した滋賀県長浜市と、中山間地の地域づくりに新たなシーンを提供した徳島県神山町の実践例を見ながら、現代の地域づくりの課題について考えることにしよう。両地域は、私の専門演習で学生達とフィールドワークに取り組んだ地域でもある。

3.長浜市中心市街地の再生

 郊外のショッピングセンターにおされて、多くの地方都市では、中心市街地が衰退にさらされてきた。そうした中で滋賀県長浜市は、市民や地元企業人達の地域づくりの取り組みにより、中心市街地の再生に成功した事例である(諸富徹『地域再生の新戦略』中公叢書2010年)。

 取り組みは、中心市街地に位置し長浜近代化のシンボルでもあり、黒漆喰の外壁から黒壁銀行と市民から呼ばれていた建物が、譲渡され壊されようとしていた状況から始まった。黒壁銀行の保存だけでなく、それを活用した商店街の再生につながる地域づくりをめざしたのである。地元の企業人や市民が中心となり、最初は8名の企業人が資金を出し合って株式会社黒壁を1989年に設立し、黒壁銀行を買い上げ活動に取り組んだ。この組織は、その後も商店街再生の中心的役割を担う。まず、当時の日本ではそれほど普及していなかった創作ガラスに着目し、ガラス工房を持ちながら、黒壁銀行はガラスの展示販売所にするところから具体的な活動が開始される。そして、黒壁銀行が面している北国街道の歴史的町並みを店舗群として再生する活動に取り組んだ。また、新長浜計画という会社を興し、統一したコンセプトのもとに、旧商店街の空き店舗に町並みにふさわしい魅力ある店を誘致した。さらに、計画が進行していた大通寺通りのアーケードの撤去により、かつての門前町の雰囲気をよみがえらせる活動と連携する。こうして商店街を歴史性に富んだ趣のある空間に変え、商店街を周遊しながら買い物ができる雰囲気をつくり出したのである。

 他方、中心市街地に人々が集う様々な仕掛け(イベントや施設)を、市と市民が協力して実施する。商店街を歩行者天国にし路上で制作者がアートやクラフトの展示販売を行うアート・イン・ナガハマ、長浜ちりめんの産地振興も兼ねたきもの大園遊会、長浜の歴史性と文化性を象徴する曳山祭の曳山を展示する曳山博物館の設置(2000年)等である。

 さらに注目すべきは、中心市街地の地域づくりの過程で、地域づくりを担う多様な市民組織が形成されてきたことである。とりわけ商店街の旧金物店を利用した「まちづくり役場」は、商店街を中心としたまちづくりの情報交流と情報発信の場となっている。また、高齢者グループが商店街で営業しているプラチナ・プラザのサポートも行っているのである。

 こうした取り組みで、年間200万人の来客と200億円の経済効果をもたらし、空き店舗95店舗の内90店舗が埋まるまでになったのである。

 長浜中心市街地再生の地域づくりは、黒壁銀行と歴史性を感じさせる商店街という地域資源の発見と活用を軸としている。そして、ガラスという新たな素材を活用して、歴史的町並みを有する地方都市で買い物をするという観光を定着させたのである。さらに、市民によるまちづくりの展開と組織化が行われた。株式会社黒壁は、まちづくりの中心組織として機能した。さらに、新長浜計画や、まちづくり役場等多様な市民組織が形成され、それらが有機的にネットワークを形成して地域づくりを支えているのである。

4 .徳島県神山町の地域づくりと中山間地の再生

 徳島県神山町は、人口5,300人、高齢化率48%で、人口減少に直面している中山間地である。神山町では、IT・映像・デザイン等のクリエイティブな人材や若者を受け入れ、人口構成を健全化し、農林業だけに依存しない地域づくりを行っており、中山間地の地域づくりのシーンを変えたと注目をされている(神田誠司『神山進化論』学芸出版社2018年)

 神山町の新たな地域づくりは、小学校の校長室に残されていた「青い目の人形」(戦前日米友好を願ってアメリカ市民から日本各地に贈られた人形)の里帰り活動から始まる(1991年)。この活動に参加したメンバーは帰国後、当時の「とくしま国際文化村プロジェクト」を活用して、国際交流事業で地域づくりのきっかけを作ろうとした。最初は、中学校の外国人英語助手の新任研修を、民泊型で受け入れた。さらに国際芸術家村づくりとして、内外の芸術家に神山に居住してもらい作品を制作するアーティスト・イン・レジデンスの事業を行う。そしてこれらの活動を担うNPO法人グリーンバレーを2004年に設立した。この組織が、その後の神山の地域づくりの中心を担うことになる。いったん神山に住んだアーティスト達は神山の魅力を評価し、一部の人々は継続して住み続けようとする。神山の空き家を彼らに紹介する活動を、グリーンバレーが始めることになった。こうした外部の人々を受け入れる活動は、神山の魅力を外部の目で再確認することになった。2000年代に入ってからは、働く場所を選ばない、IT・映像・デザインのサテライトオフィスや会社十数社が次々に神山に移転するようになる。こうしたIT関連企業の進出には、徳島県が、比較的早い段階で光ファイバー網を県内全域で整備したことも重要な要因であった。また、ベーカリーやカフェレストラン等、神山にあってほしい業態に、優先的に空き家を紹介し誘致する活動もおこなってきた。

 そして、神山の魅力を理解して移住してきた人々を活用しながら、農林業等の地場の産業の振興にも取り組んでいる。神山における地方創生事業は、「神山つなぐ公社」(住民と移住した新住民とをつなぎ、町役場とグリーンバレー等の市民組織をつなぎ、中高年と若者をつなぐ)によって、ひとづくり、すまいづくり、しごとづくり等多様な展開を見せている。

 このように神山町では、神山の魅力を評価してくれる外部の人や企業を受け入れ、それをてこにしながら中山間地の持つ魅力を再発見し、農林業という地場産業の振興をもめざしているのである。米国の都市研究者R.フロリダは、創造的な地域には人材と技術が集まっているが、そのためにはそれらを受け入れる寛容さが重要であると述べている(R. フロリダ『クリエイティブ資本論』ダイヤモンド社2008年)。神山は、地域づくりの中でそうした地域の寛容さを育み、それをバネにしつつ、地域の資源と個性をいかす地域づくりをおこなっていると言えよう。

5.おわりに

 以上見てきたように、現代日本の地域づくりは、地域の資源や個性を再発見し活用することを柱としながら、優れた実践が生み出されている。そのためには、そうした活動にひたむきに取り組む地域の人々が不可欠である。「おかえりモネ」で描かれた龍己やサヤカのような地域のリーダーは、長浜でも神山でも重要な役割を果たしてきた。同時に、地域の資源を発見し活用するには、外部の目や素材、そして新たな知識や専門性が必要になる。長浜では創作ガラスへの着目が、神山ではアーティストやIT 技術者の地域づくりへの貢献である。地域が外部の人や若者を受け入れる姿や、新たな気象情報が地域産業振興のきっかけとなることは、「おかえりモネ」でも描かれていた。R. フロリダが指摘する外部の人や新しい技術や情報への「寛容さ」がなければ、地域資源の再発見や活用は難しい。さらに地域づくりを継続的に進めるには、情報交流や情報発信を行い、地域づくりを担う市民組織が重要である。それは、長浜のまちづくり役場や、神山のグリーンバレーであり、「おかえりモネ」では森林組合やコミュニティFM局である。

 こうした条件がそろって、内発的で自律的で革新的な地域づくりが行われるのであろう。各地で行われている草の根の地域づくりが、人口減少が進行する日本の地域社会の未来を切り拓くことが期待される。

◆プロフィール◆

北村 裕明(きたむら ひろあき)

 石川県生まれ。京都大学経済学部卒業、京都大学大学院経済学研究科博士課程修了、博士(経済学)。滋賀大学経済学部助手、講師、助教授を経て教授。現在、滋賀大学経済学部特任教授・滋賀大学名誉教授。専門領域は、財政学、地方財政論、地域政策論。主著に、『現代イギリス地方自治の展開』(共編著)法律文化社1993年、『現代イギリス地方税改革論』日本経済評論社1998年、『経済経営リスクの日中比較』(共編著)サンライズ出版2009年、『地域プロデューサーの時代』淡海文化振興財団2013年、他。地域の課題解決に向けて行動できる人材「地域プロデューサー」の育成をめざす「おうみ未来塾」に、1999年の創設以来運営委員長として関わり、2010年以降は塾長を務めている。

(『CANDANA』288号より)


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