岡本 祐子(広島大学大学院教育学研究科教授)
はじめに
心を観る、自己を省察する、他者を支えるという意味では、宗教と臨床心理学は共通する点が多い。私自身、青年期の10年近く、臨済宗の老師について参禅をし、それにかなり深くコミットした。その道では在家の素人にすぎないのであるが、若き日に禅の世界にふれた体験は、その後の私の人生に相当な影響を与えた。青年期以来、臨床心理学の研究者・心理臨床家として、心の発達と危機の研究に長く携わる基盤となった〈問い〉は、次のようなものであった。ライフサイクルを通して心はどのように発達・深化していくのか。人生の中で体験される躓きや危機はそれにどのように影響するのか。人生の危機をプラスに転換していく人間の底力はどうやって培われるのか。躓きや危機のさなかにある人々の心の世界は、どうしたら理解できるのか。これらの〈問い〉は、未だに解けない。私の中にある古びることのない課題である。宗教に関心のある方々も、このような〈問い〉には馴染みが深いであろう。また、宗教的な視点からの「答え」もあると思われる。私にとっては、これらの〈問い〉を探究する上で大きな示唆を得たのが、エリクソンの人生と仕事であった。ここでは、エリクソンのアイデンティティ心理学の視点から、現代の心の発達とアイデンティティについて再考してみたい。
エリクソンの人と仕事
エリクソン(Erikson, E.H., 1902-1994)は、アイデンティティ論、ライフサイクル論を提唱した精神分析家・臨床心理学者として広く知られている。彼は、「精神分析的個体発達分化の図式」において、人間生涯を8つの段階に分け、それぞれの段階に、心理- 社会的な課題と危機があることを示した。Ⅰ.乳児期には、基本的信頼感(自分を取り巻く世界と自分自身に対する信頼)、Ⅱ.幼児初期には自律性(外からの要求を受け入れ、自分の衝動を統制すること)、Ⅲ.幼児期には自主性(自己内外のバランスを保ちつつ、主体的に自分を表現できること)、Ⅳ.児童期には勤勉性(ものごとに集中して取り組み、持続すること)、Ⅴ.青年期にはアイデンティティの達成(主体的な自分を獲得し、社会の中に居場所を得ること)が、それにあたる。成人期、高齢期の心理- 社会的テーマ(課題と危機)は、Ⅵ.親密性(特定の異性と長く親しい関係性を築くこと)、Ⅶ.世代継承性(次世代に対して関心をもちはぐくみ育てること)、Ⅷ.自我の統合性(人生をまとめ受容すること)である。エリクソンによれば、これらの心理- 社会的課題が達成されると、「人格的活力」(virture)という心の強さが獲得される。
エリクソンの人生を一言で述べるならば、「『存在』そのものの“unfitness”の中に生まれ、『境界』に生きた人」ということができる。20世紀とともに生き、実の父親を知らない。青年期に長いモラトリアム期を過ごし、ついにアメリカで児童精神分析家として成功した。エリクソンが紡ぎ出した心の発達をとらえる智慧は、深い井戸から水をくみ出すように幾重にも深まり尽きることがない。その中心的問題は次のようにまとめることができる。
① アイデンティティ論
② ライフサイクル論:「精神分析的個体発達分化の図式」
③ 発達的危機、心理社会的危機の概念:発達はプラスとマイナスの両面をもつ。心理社会的発達の各段階は、それまでの発達的危機を再び試されながら次の段階へ進んでいくという考え方。
④ 相互性(mutuality):他者の心理社会的課題への積極的関与が、自らの発達を促進するという考え方。
⑤ 世代継承性(generativity):次世代への関心と関与、世代を超えた達成とケアへの注目。
⑥ 「 発達」の行き着く先:自我の統合性(ego integrity)。
ところが、21世紀を迎えた現代社会は、20世紀後半にエリクソンが鮮やかに示した心の発達の土台と、その伸びる先の理念的基礎が揺らぎ、問い直されているのではないであろうか。つまり、①アイデンティティの感覚は、かつての主体的でまとまりのある自己から、場面や相手に合わせて変化する「多元的自己」や揺らぎやすい浅い自己感覚へ。②「アイデンティティ」の問題は、青年期の課題であると同時に、人生のどの段階においても自己をゆり動かす不安定なものへ。③エリクソンがアイデンティティ達成にとって不可欠な要素と述べた「関与・打ち込む力」(commitment)については、現代ではその対象が多すぎて関与できない、また変化のスピードが速すぎて関与できない事態へ。④ 相互性については、他者とつながれない、また他者への関心そのものが浅薄化している事態へ。⑤発達の行き着く先は、現代では不透明であり、⑥世代継承性は果たして可能なのか・・・・。私は、こういう今日の状況に危機感を抱く者である。
現代社会のアイデンティティ発達におけるパラドックス
まず、このような状況の背景、つまり今日の社会の特質について考えてみたい。21世紀の最大の社会的変化は、IT革命による高度情報化社会の到来である。情報社会の到来によって、私たちの生活は格段にスピード化、効率化が進み便利になった。これらはバラ色の快適な生活のように思われる。しかしその一方で、①スマホ・ネット依存や、この「自分」が何を感じているのかわからないという「自己感覚の脆弱化」、②人に向き合う力、コミュニケーション力、共同する能力の低下、③ 縦の人間関係の喪失など、心の発達にとってさまざまなマイナスの側面も指摘されている。
日常生活と専門的技術においては、高度情報化の進展の恩恵は測り知れないものがある。しかし、心の発達に目を向けると、注意深く考えなければならない負の影響、マイナスの問題は多々あるのではないであろうか。例えば、心が成長・発達する基本的なプロセス・必須の経験・テンポは、30年前と変わらない部分の方が多い。乳児が母親と他の人の区別がわかるようになること、母親という存在が内在化されて分離- 個体化が達成されることなど、アイデンティティの土台となる発達のテンポは今も昔も変わらない。青年期においては、「自分」に向き合うこと、一つの問題意識を持ち続け、じっくりと深く考えること、自分の言葉で表現すること、他者と向き合い、互いを理解すること、みずみずしい「自己感覚」に注意を向けることなどの体験は、「自己」と「関係性」が育つ不可欠の資質である。
しかしながら今日の情報化社会の変化のスピードは速く、日々の生活は、この自分が体験し感じていることに向き合う時間もなく過ぎていく。また、学校も職場も早く結果を出すことを要求する。この本来の発達に応じた精神テンポと日々の生活体験のズレによって、心の成長、青年の自己形成、そして専門家アイデンティティがしっかりと達成できないことも少なくない。また、思い通りには生きられない人間の苦悩をじっくりと深く共有し抱えるという経験を通しての教育・訓練はどんどん乏しくなっている。私の関わる臨床心理学とその専門家養成である臨床教育においても、「他者の苦悩を抱える」経験、それを通しての教育は減少していると言わざるを得ない。
専門的アイデンティティはどのように生成され、次世代に受け継がれるのか
このような危機感から私は、専門家アイデンティティの生成と世代継承性に関心をもつようになった。専門家アイデンティティ、つまり専門的経験・知恵・技・精神性が上の世代から自分の世代、次の世代へどのように受け継がれていっているのかという問題である。紙数の関係でその詳細はここで述べないが、工芸職人への面接調査研究によって、エリクソンの第Ⅰ段階から第Ⅴ段階までの心理- 社会的課題が、専門的職業世界においても繰り返され、一人前の職人として自立するための重要な課題であることが示唆された(岡本、2014)。乳幼児期から青年期までの心理-社会的課題が、専門的職業世界で再び、重要な心理的テーマであり課題であったことは、注目に値することである。人格形成に欠かすことのできない課題は、専門的アイデンティティの確立にとっても不可欠の課題であることが示唆されたわけである。そして、これが達成されるためには、日々、仕事の現場をともにし、毎日のFace to Faceの関わりが決定的に重要な意味をもつことが示された。工房では、親方は何も教えない。弟子は親方の動きを「見て盗み取る」。この、現場をともにし、言葉ではなく、親方の動きを「見る」ことによって、自分の力がついていく。まさに、Face to Faceの師弟の呼応がそこにある。
「危機」に向き合うことによってアイデンティティは深化する
現代社会は、「生き延びるための危機」や「飢えの体験」を知らないように見える。少なくとも我が国では、戦争は日常生活には入り込まないし、生き延びるための食べ物がないという事態はめったにおこらない。世の中は平和で豊かになったように見える。しかし、本当にそうであろうか。現代社会も、アイデンティティの危機に満ちているのではないであろうか。そして、時代の変化の中で、ともすれば浅くなっている自己感覚を、もっときちんと感じ、とらえる必要があるのではないであろうか。
「アイデンティティの危機」とは、「これまでの自分では生きていけない」という感覚・認識である。現代も人生において、こういう体験に遭遇することは決してまれではない。「これまでの自分では生きていけない」と感じずにはいられない「危機」期こそ、自己と人生について本気で考えることができる。「危機」は生命を濃くしてくれる体験なのではないか。こういう体験の時こそ、アイデンティティの感覚がシャープになるのではないかと、私は考えている。
はじめに述べたように、私は青年期以来、成人期のアイデンティティの危機と発達に関心をもってきた。青年期にいったん獲得されたアイデンティティは、その後の人生においても問い直され、再構築される。大人の人生においても、自己を揺るがす危機は少なくない。このような危機体験に主体的に向き合うことによって、成人した後も、アイデンティティはさらに発達していくのである。そのアイデンティティの立て直し・再構築のプロセスとは、「危機」を体験し、心の揺れに耐えて、その変化に折り合いをつけ、それまでの自分に新しい自分が加わり、新しいまとまりをもった自分が獲得されるという心の営みである。心は、過去と現在の自分に折り合いをつけながら循環的に発達していく(岡本、1997、2002、2007)。このことは、21世紀の現代においても人生を生き抜く重要な発達の視点である。
現代社会の心の発達を支えるエリクソンの智慧
現代社会においても、心の発達の根っこと幹は、エリクソンの紡ぎ出した智慧に学ぶところが多い。自己感覚、基本的信頼感・自律性・主体性という人格的活力、「危機」に気付き、安易に投げ出さず向き合う力の重要性が改めて認識される。かつては、これらの発達の基本的な力は、子どもの成長期に親子関係を軸とした日々の体験の中で、自然と身についてきた。しかしながら、今日の高度情報化社会においては、これらの獲得がかなり困難な事態になっている。
このようなアイデンティティ発達の土台となる力を獲得するには、相手にfitするかかわりあいを、私たちは心してていねいに行うことが必要であろう。「呼応したかかわりあい」(face to face calling and responding)の意義と意味を認識することが大事である。特に、心理的、社会的に困難な状況や、危機期にある子ども・青年・大人には、よりていねいな「呼応したかかわりあい」が重要であると思われる。
顔と顔、心と心を合わせたコミュニケーションを実践しよう
IT社会の恩恵を生かしつつ、マイナスの側面の弊害を補完するには、どうしたらよいのであろうか。私は、「人と関わる力」「相手に向き合う力」「相手の心を理解する力」の重要性を、子どもも大人も認識し、日常生活の中で実践していくことが大切だと考えている。つまり、顔と顔、心と心を合わせたコミュニケーション(face to face communication)を、家庭・学校・職場・社会のなかで実践していくよう努めることが、その第一歩となるであろう。
また、忙しい日々の中でも、自分が何を感じているのか、自分の「感覚」に目を向ける体験は心の健康にとって大きな意味をもつ。さらに、自分の目の前にいる相手が、何を感じどんな気持ちでいるのか、相手をよく見て、よく話を聴くことも、心の安寧にとって大切である。この相互の関係性の中で心の土台は育っていくと私は考えている。
引用文献
岡本祐子 (1997)中年からのアイデンティティ発達の心理学.ナカニシヤ出版.
岡本祐子 (編著)(2002)アイデンティティ生涯発達論の射程.ミネルヴァ書房.
岡本祐子 (2007)アイデンティティ生涯発達論の展開:中年の危機と心の深化.ミネルヴァ書房.
岡本祐子 (編著)(2014)プロフェッションの生成と世代継承.ナカニシヤ出版.
◆プロフィール◆
岡本 祐子(おかもと ゆうこ) (昭和29年生)
広島県生まれ。広島大学教育学部心理学科卒業。広島大学大学院教育学研究科博士課程後期(臨床心理学専攻)修了。現在、広島大学大学院教育学研究科心理学講座教授。教育学博士。臨床心理士。公認心理師。専門分野は臨床心理学、生涯発達心理学で、アイデンティティ生涯発達論、中年期・高齢期の心理臨床的援助、力動的心理療法、「人生の危機」の心理臨床、プロフェッショナルの世代継承性などが研究テーマ。
青年期以来、中年期の発達を中心とした成人期のアイデンティティの発達臨床的研究に携わり、並行して、力動的心理療法のオリエンテーションをもつ臨床心理士として、子どもから高齢者までのカウンセリングや心理療法を実践してきた。2012年8月、これまでのアイデンティティ研究・ライフサイクル研究の成果が国際的に認められ、アメリカ合衆国AustenRiggs Center よりErikson Scholar の称号を授与された。
世代継承性研究の展望―アイデンティティから世代継承性へ―(2018)、境界を生きた心理臨床家の足跡―鑪幹八郎からの口伝と継承―(2016)、プロフェッションの生成と世代継承―中年期の実りと次世代の育成―(2014)、成人発達臨床心理学ハンドブック―個と関係性からライフサイクルを見る―(2010)〈ナカニシヤ出版〉、アイデンティティ生涯発達論の展開:中年の危機と心の深化(2007)〈ミネルヴァ書房〉、現代のエスプリ別冊 中年の光と影―うつを生きる―(2006)〈至文堂〉など著書多数。
(『CANDANA』277号より)