尾登 誠一(秋田公立美術大学大学院教授)
デザインは愛である
若輩期、大学での学びの規範は、恩師、小池岩太郎先生の哲学「デザインは愛である」ということばだった。当然、未熟で好奇心旺盛の小生には、この薫陶の本意は理解できず、後に社会でデザイン提案し、また母校で教鞭をとるなか確認されたように思う。製品開発と将来これを目指す学生と向き合う教育・研究は、道具世界のみならず、これを考え提案する「人間」への洞察なくしてはありえず、思いやりや慈しみ、心への呼びかけの常態実践を信条としている。ものごとには入口と出口があって、母校退任のおり妙に気になったこと、それはデザインは愛であるというこだわりの帰結デザインテーマであったように思う。当時、私の母は96歳の高齢で余生短い病院生活を送っていたが、母のためのデザインは考えたことがなかった。そしてごく自然に母を此岸から彼岸に送る渡し船「君子さんのゆりかご」を作意させた。デザインは決してカッコイイものではなく、日々暮らす生活の場で気づく、人としての当たり前の行為であり、デザイナー以前に人間であるべきだというこだわりにより成立するように想う。
エゴ(Ego)とエコ(Eco)
仕事柄、講演依頼が多い。大学、官庁、企業、また日本に追いつき追い越せの韓国、中国など多様であるが、共通する点は、過去-現在-未来という時間軸のなかでのフォーキャスト、過去形ではなく現状と未来というテーマに収斂される。人間はどうも未来という延長線上で成長、可能性、永続性、夢の実現などを描くことが好きらしく、これらに利益・効率・調和・先端性などが連鎖してくる。考えてみれば近代西洋の人間中心主義は、二元論的価値観で人と自然を対置させ科学を発展させてきた歴史がある。人間は目的のために自然を改変・改造し、欲望を満たしてきたのかもしれない。私の研究領域はデザインであるが、科学と芸術、理論と感性、文明と文化という二極間にあって、条件により常に支点を変位させ、インプルーブメント(Improvement)という精神-物質的価値観をめざす中間の立ち位置をとる。捉えようでは不定位でファジーなスタンスであり、科学でも芸術でもない媒体的曖昧さからか、単なる表層的美的操作の職能として位置づけられることが多い。狭く深く真理を探求する科学・芸術という学問に対して、歴史の浅いデザインは、広いが浅いという解釈をされてしまう。広くて深いは究極の理想であるが、その実践者として唯一レオナルド・ダ・ビンチしか私には思い描けない。
そして科学と芸術の融合と未来という今日的課題は、多分にその底流に、エゴ(Ego)とエコ(Eco)というこれまた二元論的バランスのありようを複雑に包含するのである。人間のつくった環境の中で人間が困窮する不条理は、2011年3.11東日本大震災による原発事故や地球温暖化-異常気象による災害など、近年、規模を拡大ししかも多発傾向にある。人間のエゴは、生態系のバランスを狂わせ、想像できない災禍を人間に負わせる。端的にいえばエゴは人間中心主義であり、エコは汎自然主義だと自己解釈している。この時期、想定外ということばがよく聞かれたが、この発想は科学に偏重してきた人間の硬直した意識であり、他の生物の生息感とは大きく異なり、生命に対する本能的な感覚マヒではないかと自戒をこめて思う。いうまでもなく人間は自然の一部であり、自然と対抗する特別な存在ではないという事実は、優しい母性としての自然と厳しい局面をみせる父性としての自然観の中に、両者に共通する「生命」への凝視を必然づける。
自然は移ろう。自然に恵まれた日本は世界で類い稀な文化を形成してきた。ここでふと立ち止まり、一本の樹木を想像してみよう。木はいうまでもなく生命体であり、自然環境の中で命を育む生態をしっかりもつ。根は地面から養分を吸うためにリゾウムという横系の構造をみせる。また幹は養分を組織全体に伝える成長の基幹としてのカタチをとる。そして枝は、太陽に向かい伸び、葉や花や実(種子)を結ぶのである。生命体は環境から情報を受け、精緻なる循環システムをもつといえ、樹木も含めて代謝のサイクルが自然と同調することで命を紡ぎ、繋いでいる。翻って人間は変化、革新に速度感を加え、変わらなくていいものまでも安易に変えてしまう。自然(環境)は命の受容器であり、人は自然のサイクルと同調するとき安心する。想像してみよう、人間の寿命より短いサイクルで激変する環境は、人に対して安心感を提供できるのか?
否である。生命に関わるデザインは環境や情報に対する生物的感性(本能)への凝視といえる。先端は枝(未来)だけではない、幹は現在の体力・組織力・国力であり、さしずめ根はもう一つの先端(伝統- 過去)として捉えられなくもない。
フレキシブルな中庸の眼で観る
生物とこれらを取り巻く環境の関係を探る生態学は、生物学(biology)の一部であったが、人間も生態系の一員であるという考え方から、我々に人間と環境との関係性を研究する社会生態学という新しい視座を提示する。それは生命が環境という総合性の枠組みのなかで成長し、循環し、共生する永続性ある調和と秩序の学問であり、デザインに限らずさまざまな領域に応用展開される。そしてこの発想は必然的に、自然(人間)-環境という関係性のうえに道具や装置や建築を計画する視点を浮上させる。生態系は生命をバランスの支点として、生産-消費-還元という代謝のシステムを環境との関係性において対応させる。いうなれば動的な調和にフレキシブルに対応する中庸(Moderation)のシステムをもつという点で、無駄のない循環性や他との共生という、現代社会が抱えるテーマに多くの示唆を与えるのである。
たとえば認知心理学者ギブソンが唱えたアフォーダンス(Affordance)理論は、デザイン領域における新規軸を模索するうえでも興味深い内容である。アフォーダンスは、アフォード(Afford…生む、提供する)から派生概念化した造語で、ある特定の状況下における主体(人間などの生物)と対象(環境)の相互関係性から、環境が主体に提供している潜在的機能を意味する。環境という概念は通常、客観的・現実的・物理的事実としてとらえられるが、アフォーダンスは、人間の主観的行動や心理的行動など、主体と客体という二分法の範囲を超える概念といえる。より具体的には環境を構成するさまざまな物質や媒質(空気・水・光など)、多様な形状やテクスチャーやスケールをもつ面、あるいは道具や装置などの対象、および場所は、これと関わる生物に対して特定のアフォーダンスをもつといえる。ギブソンは、ゲシュタルト(形態)の研究を出発点とし、肉眼にとって大きな働きをするものとして視覚世界を重視した。つまり現象学的に純粋意識によって実在の世界をとらえ“見る=観る”ことの重要性を説く。そこでは事物の知覚された特徴、あるいは現実の特徴、とりわけそのものをどのように使うことができるかを決定する、最も基礎的な特徴的意味をアフォーダンスとしている。つまり環境あるいは事物からの“表情”をもつ働きかけの重要性を説くのである。例えばインテリア空間における床・壁・天井は、これに入る人間にそれぞれ、支える水平面・仕切る垂直面・蓋う水平面というサーフェイスとして視知覚され、行動や定位の手がかりとしての“情報”を送るといえる。また良く体験することだが、扉を前にしてこれを押すのか引くのか、あるいはスライドさせるのかという判断は、扉の空間的配置や機能よりも、ドアの一部に付くノブやハンドル、把手などの形状の視覚的表情をたよりにする場合が多い。我々の生活シーンに登場するさまざまな道具やインターフェイスを想像してみよう。使い易く判りやすいデザインは、外部表情(サーフェイス)に明確なアフォーダンスがしくまれるといえなくもない。アフォーダンス理論が興味深いのは、“情報”とは本来“環境”にしくまれるもので、環境と遊離して人間が勝手につくれるものではないという視座である。この視座は、常にヒト-モノ-場という関係学上で空間や道具のハタラキやコミュニケーションのありかたを考えるデザインの発想法と連動し、さまざまなヒントを与えてくれる。情報とは情けに報いると書く。いうなれば環境や自然に報いることが情報であると解釈したくなる。
品質から形質へのパラダイムシフト
デザインは、ソフト(理念)のハード(カタチ)化といえる。品質・性能は、どちらかといえば工学的、技術的、機械的要因で語られる場合が多く、「カタチの意味」のこだわりにはかなりの幅があるのが現状である。このような状況下のデザインは、製品を本性内面と表層外面という2局面でとらえる趨勢をうみ、本性と脈絡のないカタチ化に留まる例が多い。デザインは各企業が開発ポリシーに即し、独自に誇るコアコンピタンスの技術的展開であり、その中に機能・性能・品質、操作性・安全性・保守性、環境性能・革新性、そして造形性などが包含される。私論であるが、さまざまなデザインの局面において品質にカタチの意味を相乗させ、「形質」という概念にこだわるようにしている。
形質(けいしつ)とは、①生物個体のもつ性質や特徴のことで、遺伝によって子孫に伝えられる遺伝形質のことを指すことが多い(生物学、遺伝学)。そして形質が遺伝するものであれば、②個体が持つ遺伝子型が表現型として現れることを形質発現とし、それは遺伝子の影響だけではなく、環境の影響も同時に受けるとしている。形質に対するデザイン的解釈は、概ね③形態形質(外部に現れる特徴)と④生態形質(生活史・生き方)に拠るといって良い。特に形態形質は、環境から影響を受け表現型が変わることから⑤可塑性のある要素として捉えられる。
話は唐突になったが、前述文中の①生物個体は個人・家庭・企業や集団などの単一組織、そして②遺伝子型はDNA・能力・技術、また③表現型・形態形質は、人であれば容姿・性格、製品であれば形状・サイズ・素材・色・機能など、さらに④生態形質はハタラキ・実践・行動といえ、⑤可塑性は多様な社会や環境条件の影響下で生き抜くためのフレキシビリティーといえ、適応力をもつことによってサステイナブルなライフシステムは可動する。換言すれば人間中心主義から派生した品質という概念は、深く生命観と連鎖する自然主義のうちに形質へと転換可能であると考えられる。モノづくりは理念に基づく創造開発の結晶化作業であり、製品は責任の証である。形(カタチ)に質を相即させることは、大袈裟かもしれないが、芸術と科学の融合であり、二者は別物ではないと心得る。品質デザインから形質へのデザイン転換、これも生態学が示す一つのヒントといえよう。
◆プロフィール◆
尾登 誠一(おのぼり せいいち) (1948年生)
埼玉県生まれ。東京藝術大学美術学部卒。イタリア、ジョルジオ・デクルス デザインスタジオ勤務。株式会社デザインスタジオスパイラル代表取締役、北陸先端科学技術大学院大学客員准教授を経て、東京藝術大学美術学部デザイン科教授。日本色彩学会理事、日本デザイン学会副会長、国土交通省「道と景観の会」委員、公共の色彩を考える会会長、日刊工業新聞社機械工業デザイン賞、発明協会意匠部門賞等の審査委員を歴任。
現在は、東京藝術大学名誉教授、秋田公立美術大学大学院教授。主な活動に、野村不動産/YBP インテリアトータルカラープランニング、埼玉県/FIFA サッカースタジアム2002環境色彩計画、日本道路公団/ETCトールゲート色彩デザイン、JAXA 共同研究/微小重力環境における住環境-宇宙茶室のデザイン提案等がある。
(『CANDANA』276号より)