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「明日への提言」

宗教団体は不必要なのか

石井 研士(國學院大學教授)

スピリチュアルの流行と衰退

 平成10年代、それとも21世紀になってといった方がいいだろうか、メディアを通して「スピリチュアル」とか「スピリチュアリズム」という言葉が頻繁に聞こえてくるようになった。一般的に知られるようになったのは江原啓之によるところが大きい。2001年に刊行した『幸運を引き寄せるスピリチュアル・ブック』がベストセラーになり、江原はテレビ番組にレギュラー出演して人気者になっていった。

 他方で現代社会における宗教のあり方を研究する者の中には、アメリカ1970年代に生じたニュー・リリジュスコンシャスネスやニューエイジ運動に見られた極度に私的な宗教性をスピリチュアリティと呼び、日本ではメインカルチャーとして存在していると主張する島薗進のような研究者が現れた。島薗の他にも樫尾直樹『スピリチュアリティを生きる』(2002年)、伊藤雅之『現代社会とスピリチュアリティ』(2003年)、伊藤雅之・樫尾直樹・弓山達也編『スピリチュアリティの社会学』(2004)と、スピリチュアルを中心に据えた研究成果が刊行され、島薗の著作とともに、新しい概念と研究領域を提案したのだった。

 2010年には、日本宗教学会の機関誌『宗教研究』が「スピリチュアリティ」を特集し、16本の論文が寄せられた。巻頭の編集委員会による編集意図によると、スピリチュアリティに関する諸研究には大別して二つの方向性を指摘できるという。ひとつは「狭義の宗教以外という意味での非宗教的領域におけるある種の超越性の感覚を補足するもの…、いまひとつは、宗教現象の核としての宗教意識や宗教体験を「スピリチュアリティ」という用語で捉えて、宗教の本質に迫ろうとする研究」であるという。

 以上の説明を見ればわかるように、いろいろな思惑が「スピリチュアリティ」を巡って働いていた。オウム真理教事件で、宗教に対する厳しい視線やアレルギーを回避したいという思惑も見え隠れしていたように思う。ところで、私は現代社会と宗教を研究領域としながら、「スピリチュアル」にかかわる論文をいっさい書かなかった。当初からこの概念を使って現代社会を分析することにいくつかの抵抗を感じていたからである。

現代日本人の宗教性

 第一に、1970年代以降に欧米、とくにアメリカで生じた精神運動が、いかにグローバル化とはいっても、そのまま日本で定着したとは思えなかった。アメリカの価値観に対する抵抗運動として生じたカウンターカルチャー後の宗教運動と、世紀末日本の新宗教運動の活性化とは本質的に異なっているのではないか。そもそも新宗教ブームといえるほどの盛り上がりがあったのかも疑問だった。オウム真理教事件は、たしかに社会的に大きなインパクトを与えたが、宗教運動自体が私たち(とくに若者)の価値感や行動に幅広く影響を及ぼしたとは考えられない。1980年代半ば以降は、民族紛争や地域問題、政治領域における宗教的要素の拡大など、途上国、先進諸国を問わず具体的な宗教の影響が確認されるが、日本はどうなのだろうか。私には影響力はいぜんとして弱くなっていると感じられるのである。

 二つ目は「宗教」の定義にかかわることであるが、宗教現象の中核を「スピリチュアリティ」と呼んでも、それは宗教とは何かと問うこととどれだけの差があるのか、私にはわからなかった。研究者も宗教者も、オウム真理教事件の社会からの冷たい視線を避けるために「スピリチュアル」を用いるのだとすれば、あまりに腰砕け的な対応だと思った。

 スピリチュアリティが現代日本の代表的な宗教性だと主張する人々が扱う領域はかなり広い。「人と人との繋がり」をキーワードにすると、領域はとてつもなく広がるし、研究対象が狭い範囲で汲々とすることはないので、研究者は新たな領域を求めて多様な方面に進出が可能になった。反面、すべての文化現象が宗教的、人と人との繋がりは超越的といっても、「宗教」の焦点はぼけ、結局すべて宗教的といっているのに等しく、これは何も説明していないのと同じであるように思える。

 第三に、宗教の個人化、内心倫理化という表現は、現代社会の特徴のひとつが個人化である以上、当然の流れのように映った。しかし、もともと教団に属している者は人口の一割程度である私たち日本人にとって、帰属していた教団から離れるも離れないも、大きな意味を持たなかった。他方ではいぜんとして初詣の参拝やお盆・お彼岸の墓参りは盛んで、そうした宗教的行為も教団との関係と考えれば、矛盾ははなはだしかった。日本における宗教のあり方を前提としたときに、現代日本における宗教の現状を、「宗教」の個人化や内心倫理化、あるいはスピリチュアルと説明することが妥当なのだろうか。説明できる部分が存在するとしても、それは全体のごく一部に過ぎないと考える。

 明治以降、宗教研究者は現代社会と宗教のあり方に関する多くの有力な学説を海外から学び適用しようと試みてきた。しかしながら結局、欧米と日本の宗教文化の相違の壁の前に適用しきれず、今日にいたっていると考える。

宗教団体とスピリチュアル

 スピリチュアリティで気にかかっていた重要なことのひとつに「宗教団体」があった。たとえば「教団の奨励する信仰生活によって醸成される「宗教意識」とは異なる、やや新しい現代的な「宗教意識」をあえてスピリチュアリティと呼んでおこう」(樫尾、144頁)という説明は、大雑把だがスピリチュアリティを標榜する研究者に共通の理解といってよかった。スピリチュアリティは「宗教的であっても、宗教教団や伝統に拘束されない個人的・非制度的な宗教意識」(弓山達也、宗教学事典)である。

 しかし、先にも言及したように、日本人の宗教性は、自らが自覚的に教団に帰属して形成されてきたものではない。特定の教団に帰属している日本人は1割ほどで、欧米や韓国と比較しても極端に少ない。「信仰を持っている」という人も、世論調査では3割を切っている。それでも日本人が非宗教的であると指摘されないのは、初詣やお盆といった年中行事や、誕生から死までの通過儀礼を通して宗教とかかわり、その背景に祖先崇拝や穢れ感、祟り、自然への感謝などの宗教的世界観が存在するからである。

 年中行事や通過儀礼の機会に日本人がかかわるのは神社やお寺である。旅行の際に著名な寺社に立ち寄ることは、特別教えられなくてもふつうに日本人が行う行為である。あるいは、何か特別のお願いがあるときには、相応しい寺社に詣でて必死にお祈りをすることも珍しいことではない。キリスト教の教会にも、子どもの時に友だちから誘われてクリスマスのミサに参加したことがあるという経験を持つ人も少なくないだろう。

 現在では少なくなったが、自宅に神棚や仏壇があって、年長者が手を合わせる行為は、特段信仰とは自覚されずに行われてきた。台所に貼られた火伏のお札、財布の中のお守りなど、明確な教団への帰属や教義の遵守とは異なった、素朴な宗教行動や感覚、簡単な祈りの動作の習得を支えてきたのは、神社やお寺といった宗教団体である。

伝統宗教の衰退

 1970年代の宗教社会学のトレンドは「伝統宗教の衰退」だった。(そして新宗教運動の隆昌がセットになっていた)私が大学院で宗教社会学を勉強していた頃、先生の年代に当たる研究者は、こぞって伝統宗教の衰退(よくても変容)を指摘している。たとえば、井門富二夫『世俗社会の宗教』(1970)、藤井正雄『現代人の信仰構造-宗教浮動人口の行動と思想』(1974)、井門富二夫『神殺しの時代』(1974)、柳川啓一編『現代社会と宗教』(1978)、柳川啓一・安斎伸共編『宗教と社会変動』(1979)といったところだろうか。この時期の伝統宗教の衰退は、近代化や世俗化と宗教との一般理論に裏付けられたものであった。だから、本当に伝統宗教が〈衰退〉しているのかどうかという調査はあまり行われていない。

 しかし、地方での過疎化や限界集落化が進んだ。家族構造が大きく変わり、少子高齢化、晩婚化、単身世帯の増加、生涯未婚率の上昇はとめられなくなった。これまで神社や寺院を支えてきた社会基盤が脆弱化していった。他方で情報化は短期間に進展し、高度情報化社会、高度消費社会のまっただなかに私たちは立つことになった。

 地域社会は神社や寺院を支えられず、家庭での宗教性は欠落していった。基本的な宗教情操は涵養されず、情報の中で喧伝される癒やしやスピリチュアルに人の目が映るようになっていった。(実際の伝統宗教は全体的な基盤の喪失ではなく、一部の隆昌と大多数の衰徴という二極化の様相を呈している。この点についても社会構造の変動が大きく関与している)

宗教性のゆくへ

 素朴な宗教的感性や情操が、家でも地域でも、ましてや教育においても育まれる機会を失っていき、個人は情報と消費の渦の中で断片的な宗教に関心を持つようになるとしたら、この国の宗教文化、ひいては精神文化はどうなるのだろうか。現代人が教義や儀礼の遵守を求められる宗教団体に帰属することは、いっそうハードルが高くなったのではないか。

 少子高齢化、人口減少、地域社会の流動化と崩壊、家族形態の変化はとどまる様子を示さない。情報や消費の中で宗教性が翻弄されるのを止めるために、日本人には組織により安定した宗教団体の存在が必要だと考える。相変わらず日本人は組織的な宗教団体へは帰属しないだろう。それでも、宗教団体が社会の中で安定した活動を続けることが、私たち日本人の宗教性を支えていくのだと考える。


◆プロフィール◆

石井 研士(いしい けんじ)        (1954年生)

 東京都生まれ。國學院大學神道文化学部教授。博士(宗教学)。國學院大學副学長。國學院大學図書館長。東京大学文学部宗教学宗教史学科卒業。東京大学人文科学研究科宗教学宗教史学博士課程修了。東京大学文学部助手、文化庁宗務課専門職員を経て現職。文部科学省・宗教法人審議会委員、公益財団法人・日本宗教連盟理事、日本宗教学会理事、公益財団法人・WCRP評議員、独立行政法人・大学評価学位授与機構専門委員。著書に『渋谷学』『神さまってホントにいるの?』(弘文堂)、『渋谷の神々』(雄山閣)、『バラエティ化する宗教』(編著・青弓社)、『銀座の神々――都市に溶け込む宗教』(新曜社)などがある。

(『CANDANA』274号より)


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