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「明日への提言」

立正佼成会と女性

大隅 和雄(東京女子大学名誉教授)

 私は、本誌『CANDANA』239号(2009年9月)「明日への提言」に「仏教史に信心の跡を訪ねる」という題で、日本仏教史の研究の上で、女性の信心と宗教活動を視野に入れ、明らかにすることが、重要な課題だと記した。その所為か、「立正佼成会と女性」というテーマを掲げる今年の善知識研究会で、問題提起を依頼されることになり、以下のような主旨の報告をさせていただいた。

1.法則の希求と真摯な祈祷

 佼成会の開祖は、少年の時から、目には見えないものを敬う心の持ち主であったが、東京に出て、奉公先の主人が信じていた我国神徳社の教えに従うようになった。しかし、我が子が重い病気に罹った時、その教えで危機を脱することができず、天狗不動の祈祷に縋って助けられた。その後、大日本弘祐会の教えを信奉したが、再び子供の病気に直面して、霊友会の信仰に入ることになった。我国神徳社の規則を大切にしていた石原淑太郎、姓名鑑定の法則を説いた小林晟高、漢学の学識で法華経を読解した新井助信は男性で、激しい祈祷で開祖を圧倒した綱木梅野、厳しい修行の霊友会に開祖を入会させた新井助信夫人の恒子は女性であったから、開祖は、男性の法則と女性の信心と祈祷との間を行き交って、信仰を深めて行ったものと思われる。

 霊友会に入った開祖は、何人もの人を入会させたが、その一人、後の脇祖が熱心な信者になり、厳しい修行を経て神示を受けることができるまでになった。開祖は新井支部の副支部長になって、支部の活動の中心になったが、霊友会の本部が、法華経を軽視するような指示を出すのに承服できず、新井支部長の了解をえて霊友会から分れ、大日本立正交成会を創設した。その時、開祖は33歳であったから、会長と副会長には、年長の村山日襄、石原淑太郎を迎え、自らは総務という役について活動を始めた。そして、開祖と行動を共にし、布教の大きな力となった脇祖は、その時50歳、さまざまな人生経験を重ねて、人の悩みや苦しみの本音を見抜く力を持つ女性であった。

2.女性が集まる法座

 昭和10年代の日本では、庶民の暮らしは今よりはるかに貧しかった。男が生活の糧を得るために働き、女は家事と育児に専念して生活のやりくりをしていた。家事は、炊事、洗濯、裁縫など、今では考えられないほど手間と時間のかかる労働であった。家の外に出て働く女性は、極めて少数で、学校の教員、看護婦、電話交換手、バスの車掌などは、職業婦人と呼ばれていた。

 男性は仕事で精一杯であったから、日々の暮らしの中で出て来る問題や悩みを打ち明け、解決を模索する法座に参加する余裕はなかった。それに対して、女性は男性のように職場の時間に拘束されることなく、自分の努力で時間の調節をして、法座に出て信心を語り合い、布教のために家の外に出ることも不可能ではなかった。

 脇祖の周りには、生活の悩みを抱えた主婦が集まるようになり、その集りは、家族、親族のしがらみ、隣近所の付き合いの枠を越えた、社会的な問題を考える場になった。脇祖は、普通の主婦にはないさまざまな人生体験を持つ人であったから、集まって来る女性たちに、苦しい生活を乗り越えて行く勇気を与え、時には、心得違いの根性を厳しく叱って、信心に目覚めさせ、多くの人々を引き付けた。

 「人間はどこまでもバカになって、下がれるだけ下がっていなければいけませんよ。」「他人を導くには口で説いて導くことはできるが、自分の家の人は口で説いただけではけっして導くことはできない。」など、脇祖のことばは、女性が女性に対して語ったことば以外の何ものでもなく、「ものをムダにしない、生かして物を使わせていただくという感謝の心」を説いた脇祖のことばは、今も、女性信者の間に語り伝えられている。

 救いを求める人があると聞けば、開祖と脇祖は二人で出かけた。子供の病気、出征した夫の無事を願う祈祷、空襲の爆弾を避ける祈り、などなどさまざまな災厄に脅える人々の心を鎮めるために、開祖と脇祖は、自転車に乗り、遠い所は電車を乗り継いで出かけ、題目を唱え、経文を読み、お九字を切るなどの行法を行った。

3.日常の現実から離れない女性

 初期の佼成会は、脇祖の周りに集まった、熱心な女性信者によって活動を続けていた。信者の数が増えると、多くの人を導いた女性が、親支部から株分けの形で新しい支部を作ることになった。会の活動は女性が中心で、男性幹部として活動した人は、女性幹部の夫という例がほとんどであった。当時、家の外で活動する妻は、書類には夫の名を書くことが普通だったので、佼成会の記録、文書資料に男性の名が出ていても、実際は女性が活動している場合が多かった。

 昭和23年頃、佼成会は八つの支部から成り立っていて、霊感を重んじる支部、修行を大切にする支部、社会的な活動に積極的な支部など、支部にはそれぞれ個性があった。親支部の個性は子支部にも引き継がれて、佼成会は異なる個性を持つ支部の連合体といってもいい団体であったが、支部は開祖と脇祖への深い帰依によって結ばれていた。

 支部長さんは、語りかける相手の家の米櫃に、今日はどのくらい米が入っているかまでお見通しだったというのは、初期の佼成会の語り草であるが、女性が生活に密着した話題で、地を這うような布教をしたのに比して、男性は他家の米櫃のことなど知る由もない。男性の話題は日々の生活から離陸して、政治や経済の動向などに向かい、一般的な法則や教義のことになりがちであった。女性は、離陸した話題をオモテと呼び、直感的に通じ合える、カゲの話に真実があると考え、カゲを信じることを大切にした。

4.教学の整備と組織の合理化

 大きな教団に発展した佼成会は、すでに強大な教団となっていた創価学会から、格好の相手として論争を挑まれることになった。佼成会が先祖供養や、姓名学などを包み込んだ重層的な教説を信奉し、日常生活に密着した女性の活動によって発展した教団であるのに対して、創価学会は、その名の通り創価教育学の学会に始まる教学を掲げる、男性主導の教団であった。

 佼成会は、創価学会の攻撃を受けて立つために、教学の整備を急ぎ、日蓮宗学の論客であった鴨宮成介師を中心に、教学研修を開始し、開祖も講壇に立って、四諦、八正道、十二因縁から始めて、法華経の本旨に至る講義を行った。しかし、一般に女性会員の間では、カゲのことが大切にされ、オモテである教学はあまり話題にされなかった。創価学会の佼成会攻撃の先頭に立ったのは、男性であったから、受けて立つ佼成会側も男子青年部が、前面に立ち、教学が重要視される中で、女性が活動の中心に立つことは少なくなった。

 佼成会の本部周辺の支部では、経験豊かな活動家も多く、支部活動の役割分担もおのずからできていたが、本部から遠い所で、信仰の一粒種に始まり、本部から単身赴任してきた支部長を指導者として活動を始めた地方支部で、社会的な経験の乏しい女性たちが、支部の組織を作るのは簡単なことではなかった。いくつかの支部では、復員してきた軍人が、夫の出征中に佼成会に入会していた夫人に協力して活動に参加し、集まった人々の上下関係を明確にし、指導命令系統を明確にして、支部組織を作って行ったが、そうした軍人の発想に馴染めない女性は、活動の中心には立ちにくくなった。

 教学の整備についでもう一つ、重大な改革は、導きの親子関係の上に成り立っていた教団組織を、地域ブロック制に替えたことであった。地域ブロック制は、『佼成』・『佼成新聞』の配布を、迅速に行うために必要とされたといわれるが、全国に広がっている支部が、親支部の指示に頼るのではなく、地域でまとまって活動できるようにする必要が感じられるようになっていたことが考えられる。しかし、地域ブロック制への移行で、女性の人間関係を絆とする導きの親子関係が解体され、女性の活動の場は狭められて行った。

 大きくなった教団は、大聖堂、普門館などの巨大施設を次々に建設したが、その管理には、専任の知識や技術が必要になった。開祖は、会員の奉仕で教団を維持するのを理想とし、会員の間では、お役ということばで、それが理解されていたが、大きくなった教団では、専任職員が増えて行き、組織の上層は完全に男性の集団になった。

 しかし、教団の本部を見れば、管理職の女性は少数であるが、地方の教会で、日々の活動を続けている、総務、教務、そして支部長、主任のほとんどは女性で、そのお役への献身的な働きによって、お導きや手取りが続けられている。役所や会社では、仕事の基本方針は上司が決めて、実務は部下が行うということになるが、宗教教団では、その実務にあたる仕事が、日々の活動の本体である。会員一人一人を動かして行く、宗教活動の本体は、女性の活動家が担っている。

5.終わりに

 佼成会が創立された80年前の日本の社会に比して、女性の位置は大きく変わった。女性の進学率は上がり、有職者の女性は年々増加し、共働きが普通になって、お役に専念することのできる女性は、年々少なくなっている。かつて、女性が喜びに満ちて活動していた佼成会の姿は、教団が発展するにつれて、近代化、合理化が進む中で、見えなくなったが、未来に向けて発展して行くためには、男性と女性が、宗教活動において異なる特性を持っていることの認識を深め、活動する女性を支える仕組みを創って行くことが、急務ではないかと思い、その論議が進むことを願ってやまない。


◆プロフィール◆

大隅 和雄(おおすみ・かずお)         (1932年生)

 福岡県福岡市生まれ。1955年、東京大学文学部国史学科卒業、同大学大学院人文科学研究科修士課程国史学専攻に進学。1969年、博士課程中途退学。北海道大学文学部史学科助教授。1977年、東京女子大学文理学部史学科教授。2001年、定年退職後、北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、大阪大学、九州大学、早稲田大学などの非常勤講師をはじめ、北京日本学研究センター、ハンガリー・ブタペスト大学の客員教授、韓国・誠心女子大学校の講師を務める。日本史思想学会会長などを歴任し、現在、醍醐寺文化財研究所所長。東京女子大学名誉教授。

 著書に、『中世思想史への構想歴史・文学・宗教』(名著刊行会、1984、さみっと双書)、『愚管抄を読む中世日本の歴史観』(1986、平凡社選書、のち講談社学術文庫)、『事典の語る日本の歴史』(1988、そしえて文庫、のち講談社学術文庫)、『中世・歴史と文学のあいだ』(吉川弘文館、1993)、『日本の文化をよみなおす仏教・年中行事・文学の中世』(吉川弘文館、1998)、『信心の世界、遁世者の心』(中央公論新社、2002)、『方丈記に人と栖の無常を読む』(吉川弘文館、2004)、『中世仏教の思想と社会』(名著刊行会、2005)など多数。

(CANDANA264号より)


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