草光俊雄(東京大学名誉教授)
今年2024年は異常に暑い夏が続き、11月になっても夏日が観測され、富士山の初冠雪も例年に比べて遅かった。暑さだけではなく、台風や豪雨の被害も多く、心を痛めたのは元旦に大きな地震に見舞われた能登地方が、9月に大雨による水害や土砂崩れなどに襲われたことであった。また世界に目を向けると、この秋にスペインのバレンシアとアンダルシアで起きた大洪水は何百という犠牲者を出しているし、アジアの国々でも目を覆いたくなるような悲惨な豪雨の被害がひっきりなしに報道されている。これらは確かに天災である。しかしその元凶となっているとみられる地球の温暖化は、明らかに産業革命以降の人間の活動によるものであり、物欲を限りなく追求し、自然を破壊してきたのはこの地上で人間だけであり、自分たちの生活が脅かされてきているだけではなく、大量の動植物が絶滅したり、減少したりしてきていることは、多くの科学者たちが指摘していることである。
僕はイギリスの産業革命の時代を研究の対象に選びそのためにイギリスに留学した。その頃(1970年代)の研究の動向としてはまだ「なぜイギリスが世界に先駆けて産業革命をなしとげることができたのか?」を解くことが経済史研究の大きな問いであった。「最初の産業革命」「最初の工業国家」「解き放たれたプロメテウス」そして工業化の恩恵を受けた19世紀のイギリスを「進歩の時代」などと名付け、時代を明るい社会として描き出すことが主流であった。しかし同時に産業革命の負の側面について多くの指摘があることも学ぶことになった。一つは社会構造の大きな変革であり、労働者階級の成立であった。やや図式的ではあるが、富を生み出す主体でありながら搾取によってその富を享受することができない人々の誕生である。もう一つの負の遺産は、産業革命からかなりの期間、多少の例外はあるものの、資本家たちの多くは富の追求に無我夢中であり、産業化による自然破壊には目を向けることはなかったということである。河川の汚染、森林の伐採、大気の汚染など、人々を取り巻く環境が目に見えて変化していっても、自分たちの責任を自覚せず、利益の獲得が至上命令となっていった。
産業革命は機械の発明によって労働の軽減化、単純化と生産性の向上をもたらした。労働の組織化も改良され、分業によって効率化が可能になった。1世紀以上経って、チャップリンの「モダン・タイムズ」が描くような労働者が生産過程の一つの歯車となってしまう、労働の質が問われるような事態が、そもそもの工業化の初めから生じていたことを証言する資料は多い。非人間的な資本主義に対する批判は産業革命とほぼ同時に始まっている。例えば機械打ち壊し運動として知られる「ラッダイト運動」は熟練労働者が機械によって奪われる仕事を守るための闘争だったが、単なる機械反対闘争ではなかったことが知られている。化石燃料を動力として機械を駆使した工業化の道は生産力を飛躍的に高めていったが、当初からそれがもたらす自然への影響を無視してきた。
当時、工業化の気象に与える影響を早くから指摘していたのがジョン・ラスキンだった。1884年に「19世紀の嵐雲The Storm Cloud of the Nineteenth Century」という講演を行い、自宅のある湖水地方の上空の雲に異変を感じ、そこからさほど遠距離ではない工業地帯のマンチェスターで生み出される大気汚染の影響を、長年続けてきた雲と空の観察をもとに指摘し社会批判として警告したのだった。もっとも彼の資本主義批判はすでに早い時期から始まっている。1860年に雑誌『コーンヒル・マガジン』に連載「この最後の者にも Unto this Last」を始め、アダム・スミス以来の古典派の政治経済学ならびにその基礎となった経験主義的な哲学思想と功利主義に対する批判を開始するのである。なかでもスミスの理論を発展したジェイムズ・ミルやデイヴィッド・リカード、さらに彼らの経済学を大成したジョン・スチュアート・ミルがラスキンの批判の矛先となった。この当時としては正当的な経済学を真っ向から批判した彼の論文は激しい批判にあい、連載は中断させられたが、62年に単行本として出版される。同時代の資本主義とそれを支える政治経済学は産業社会が生み出した非人間的、非社会的な側面に目をつぶるかそれを肯定することによって、困窮し社会の底辺に落ちた労働者たちを見捨てるのだ、とラスキンの筆鋒は鋭い。
かかる資本主義社会とその理論的基盤としての古典派経済学への批判を展開しながら、同時に彼は今現在の私たちにまで通底する環境問題の専門家として新たな装いを見せて登場するのである。ラスキンは若い時から自然の美について崇敬の念を抱いていた。それは彼がまだ14歳の時に、イタリア旅行の帰途スイスのシャモニーでモンブランを見て受けた霊感であった。彼のアルプスへの憧憬は単なる自然美へのそれだけではなかった。最初のモンブランとの出会いのあと、帰国してからフランスの博物学者で特に地質学や気象学を専門としていたオラース・ベネディクト・ド・ソシュールの『アルプス紀行』を読んで、アルプスの地質学の論文をものしたが、それは彼が15歳の時であった。それ以降、ラスキンは山の自然が与えてくれる美への崇敬とそれをよりよく理解するようにその美を形作っている地質学を踏まえた自然そのものの魅力を語るようになり、自然こそ神によって造形された美の究極、「地上の大聖堂」であると論じるのだ。そしてラスキンに自然が示し始めた異常な事実を突きつけたのは彼が観察していた気象の異変であった。彼は『近代画家論3巻』で、19世紀の風景画は画家たちの雲に対する注目によって特徴づけられる、と論じていたが、「19世紀の嵐雲」では工業化による公害の結果、異様な様相を示す雲の観察を報告し、その雲が生み出す大気汚染をも予測し、事態が極めて悲劇的なものであることに警鐘を鳴らす悲観的な内容になっている。ラスキンがエコロジトとして先駆的であったということはいくら強調し過ぎてもし過ぎることはないだろう。
さて、ここでラスキンから少し離れてイギリスにおける自然保護について別の側面から見てみたいと思う。イギリスには「王立野鳥保護協会 Royal Society for the Protection of Birds(RSPB)」という団体がある。文字通り、野鳥の保護を謳っている団体であるが、設立当初には明確な目的があった。それは女性のファッションで流行していた鳥の羽根の使用を禁止させることを目的にしたもので、女性自身による運動が始まりであった。1889年にエミリー・ウィリアムスンは自宅でティーパーティを開きながら、鳥の羽根の流行が、何万という鳥たちの命を奪っていることを友人たちに訴えることで、一つの組織を作って、こうした残酷な取引とファッション産業の現実を変えなければならないことを熱心に主張して賛同者を増やしていった。そして1891年にはエッタ・レモン、エライザ・フィリップスなど情熱的にこの運動の支持者となった人々を巻き込んで、「野鳥保護協会 Society for the Protection of Birds」を設立し、会長にはポートランド侯爵夫人を選出し、夫人は1954年までなんと半世紀以上会長を務めた。彼女たちの訴えを支持する運動は次第に大きく無視できないほどになり、ヴィクトリア女王が鳥の羽根の使用を否定する考えを表明することもあり、1904年には王立の勅許 Royal を獲得し、それからは「王立野鳥保護協会」となった。また時間は経ったが、1921年には当初の目的であった羽根の取引を禁止する「羽毛輸入(禁止)法 Importation of Plumage(Prohibition)Act」の成立を見る。コサギ、カンムリカイツブリ、ハチドリなどなどの美しい装飾羽毛を持つ野鳥たちが存在そのものの限界まで採集され、アメリカやヨーロッパのファッション産業によって消費された。その数は20世紀の初めでその数600万キロ、値にすると今日の価格で20億ポンド(約3800億円)という巨額の金額が取引されていた。これはロンドンだけでの数字なので実際はこの何倍もの量の取引が行われていた。
イギリスの王立野鳥保護協会の活躍を見ていて興味深いのは、野鳥保護の運動を率先し働いていたのが女性たちだったということである。もちろん後から男性が加わって実質的な働きをしたことには相違ないが、お茶会の席で、今時のファッションで貴重な野鳥の飾り羽が使われているのは許せない自然破壊であると、次第に同じ志の女性たちの輪を広げていき、一つの団体を設立したことには尊敬の念を禁じ得ない。
実は僕はイギリスでRSPBのメンバーだった。これは誰でも簡単にメンバーになることができる。父親が日本で野鳥の会に入って探鳥会に出かけて楽しんでいることを聞いて、僕も鳥のことをもっと知りたいと手っ取り早く入会できるRSPBのメンバーになり、そのロンドン支部が行なっている探鳥会などに参加しながら鳥の名前などを覚えていった。僕はそのほかにも「英国鳥類研究団体 British Trust for Ornithology」のメンバーにもなったが、これは動物学の分野としての鳥類学研究の団体で、僕のような素人ができるのは、年に一回数キロメートル四方の土地にどのような野鳥がどれだけ見られるか、といった調査の結果を本部に送って、それを基に、野鳥の国勢調査のようなものを作る手伝いをするくらいなのだが、逆にいうと鳥類学の研究はアマチュアのこうした貢献なしには成り立たないところがある。
RSPBは19世紀の後半に成立し、羽毛を集めてファッションとして売りに出すような産業に反対することになったが、野鳥保護をもう少し広げて考えると、やはり人間の勝手な思惑のために種の存続の危機に陥ることが多々見られた。例えばイギリスでは貴族の趣味として狩猟が重要なものとして存在するが、今でも人気のある狩猟は雷鳥狩りとキジ狩りである。雷鳥はもともとイングランドやスコットランドなどでは生来の野鳥なので、ゲームキーパーなどによって貴族自らの土地を管理しながら、鳥の数を維持させることができたが、キジの場合、もともと多くのキジは狩猟のために輸入されたものであり、キジの個数を増やし維持していくために、キジの天敵である野鳥、例えば鷹類の野鳥、狐などの動物などを排斥しなければならず、システマティックな駆除のために、多くの野鳥が殺戮されることが起きて、自然界の鳥類のバランスが大きく崩れてしまうといったことが起きた。これは一部の特権階級の趣味のために生態系の危機が生じる例であるが、今日では気象危機が多くの動植物の生存を危うくしており、人類が産みだした地球の温暖化が後戻りできない事態となってしまっていることは周知のことであろう。我が国でも、コウノトリやトキの例を見るように国内では絶滅した野鳥の復活の努力がされており、かろうじて成果が上がっているかに見えるが、鳥たちの未来は必ずしも明るいとは言えない。レイチェル・カーソンが『沈黙の春』で明らかにしたDDTによる動植物への影響は、本来なら鳥たちのさえずりが満ちている自然世界が生命の息吹が失われた沈黙の世界に変わってしまったという黙示録的な現実を示していた。ラスキン自身カーソンよりはるか昔に『この最後の者にも』のなかで次のような予言のような言葉を書いている。「沈黙する大気というのは心地よくない。大気は低い音のかすかな流れ―小鳥のさえずり、昆虫のかすかな羽音や鳴き声、大人の太い調子の言葉、子供の気ままな甲高い声―に満ちていてこそ心地よいものなのだ。すべての愛らしいものもまた必要なことがようやく分かるようになるだろう。栽培される穀物と同じように路傍の野の花も、また飼育される家畜と同じように野鳥や森の動物も必要なことが。人はパンのみにて生きるものではないのだから」。自然に耳をすませばそこに生きているものたちの息吹が感じられる。小鳥のさえずり、虫の羽音などはなくてはならない自然の一部である。ラスキンはそうした自然が失われることがないように警鐘を鳴らし続けたのである。
最後にここで自然を観察し、何よりも自然の驚異を身をもって体感し、地道な研究を続けることがそのまま自然保護へと形を成していった日本が誇るべき南方熊楠について明日の世界を見据えるためにぜひ紹介しておきたい。あまりにも偉大な南方の研究者としての実力について僕などが云々することはできないが、欧米での長年にわたる研究生活を踏まえた、東西の極めて博学な知識を縦横に駆使した比較研究の優れた仕事と共に、特に帰国してから熊野の自然にとりくむなかで展開していった粘菌類の研究などから生み出された、自然が十全にその存在を全うするからこそ可能となるすべての生きるものが関係しあっている、「南方曼荼羅」的な世界を、南方は描いていった。南方は神社合祀によって縮小された森林を伐採しようとする国家による自然破壊に断固として反対の声をあげ、かろうじて残る神社を支えていた自然林の保護に情熱を捧げたのである。
ラスキンによる自然破壊への警告は産業・工業社会が生み出す公害に対する糾弾であったが、南方熊楠の場合は、工業化への批判には直接は言及していなかったかもしれないが、人間のみならず自然世界を支えている根本を破壊しようとする理不尽な人間による行動への批判であった。また「王立野鳥保護協会」の出発の原点は、商業主義的なファッション産業による利益追求のための野鳥の大量殺戮であったが、これも現代社会の矛盾を暴き出す根源的な戦いであった。われわれの周りの自然を享受し、その恩恵によって生きていることを思えば思うほど、その恵みへの理解の不足、自然の破壊をもたらすものへの批判と保全は、自分たちの子孫にたいする現在生きる一人ひとりの責任である。自然保護には妥協はありえない。ちょうどこの原稿を書いているときに、世界の200余国の代表たちが集まって「国連気候変動枠組条約第29回締約国会議COP29」がアゼルバイジャンのバクーで開催されていたが、化石燃料を産出する国は地球温暖化の最大の原因ともされる化石燃料生産の制限には消極的であった。アメリカの次期大統領に選出されたアメリカ第一主義のドナルド・トランプは地球の気象変動などどこ吹く風と言わんばかりに化石燃料の生産を推し進めると公約し、結局自分たちの首を絞めるところの労働者たちも、生活第一という理由でトランプを支持した。自然保護と経済とのバランスをとったときに多くの人は経済に賛同する。しかしラスキンが『この最後の者にも』で主張したのは、このような経済万能、利益追求型の考え方そのものに対する異議申し立てであった。僕もラスキンの考え方に賛同する。豊かな社会を謳い経済第一の政治を目指すというような考えが多いが、僕はそう思わない。豊かさが自然の破壊の上に成立しているような社会は根本的に間違っているのだと思う。僕の「明日への提言」は自然を大切にし、自然からもたらされる幸を有り難く享受しながら、毎日の生活を大事にしようということである。(この文章を書くにあたって富士川義之先生のエッセイ「危機の時代を生きるラスキン―代表的なエコロジスト―」(『ラスキン文庫たより』第85号、2023)などを参考にした)。
◆プロフィール◆
草光俊雄(くさみつとしお)
慶應義塾大学経済学部卒業;慶應義塾大学院経済学研究科修士課程修了;英国シェフィールド大学博士課程修了(社会経済史)PhD 取得;ジョゼフ・ニーダム研究所(英国ケンブリッジ)研究員;上智大学、日本女子大学、東京大学、放送大学を経て現在東京大学名誉教授;博士号は英国の産業革命とデザインについて主に繊維産業について調べた。今は広く日英の社会史、文化史を中心に学んでいる;王立歴史学協会(Royal Historical Society)フェロー、ラスキン文庫理事、鎌倉ペンクラブ幹事。
著書は『明け方のホルン』小沢書店、1991、みすず書房、2006;『歴史の工房―英国で学んだこと』みすず書房、2016;草光、近藤和彦、松村高夫、斉藤修編、『英国をみる―歴史と社会』リブロポート、1991;草光、小林康夫編、『未来のなかの中世』東京大学出版会、1997;草光、都築忠七、ゴードン・ダニエルス編『日英交流史1600~2000、第5巻社会文化』東京大学出版会、2001
“Great Exhibitions before 1851”, History Workshop Journal, no.9, 1980; “British industrialisation and design before the Great Exhibition”, Textile History, Vol.12, 1981:“Consuming plants: botany and consumer society”, A.J.H.Latham and Heita Kawakatsu (eds), Asia and the History of the International Economy: Essays in Memory of Peter Mathias, Routledge, 2018
(『CANDANA』300号より)